2013年3月30日土曜日

追記:そして、なぜ「吟遊詩人」なのか。フィリップ・マーロウを参考に。


さきの「吟遊詩人のまなざし」の話では、なぜそれが「吟遊詩人の」と名づけられるのか。

やや唐突な遠回りなのだが、ハードボイルド小説について、少し。レイモンド・チャンドラーの生み出した探偵にフィリップ・マーロウがいる。彼は、ハードボイルド探偵の代表格だ。「ハードボイルド」とは、固ゆで卵のように硬質で弾力のある人格を意味する言葉なのだと思うが、実際、マーロウの活躍ぶり、その台詞回しは、気が利いていて、感情に流されることがない。それは、硬質な文体と相まって素晴らしい小説の効果をあげている。

だが、マーロウの物語は、ただ単に「強くて」「クール」な探偵のお話ではない。それどころか、マーロウ自身が自分のことを「センチメンタル」なやつだと言い、チャンドラー文学の決め台詞としてよく引き合いに出されるのは、「タフでなければ、生きていけない。だが、やさしくなければ、生きている資格がない」という、情のあるものだ。というわけで、ハードボイルド探偵もののマーロウは、実に「感傷」と「やさしさ」にも通じている。

また、面白いのは、マーロウが事件にわざわざ巻き込まれていく理由だ。たとえば、一度会ったきりの人物に対して、友情や義理堅さ、日本語で言えば、仁義みたいなつながりを勝手に抱くがゆえに、事件に首を突っ込んでいく。そういう個人的な理由を堅持するから、警察とも張り合う、ヤクザな連中にもよく思われない、犯人にも暴行を受ける、というわけで、タフでないとやっていけない。

けれども、彼は、けっして感情の坩堝には、落ちない。いつも愛嬌のある、気の利いた、ジョークのような台詞で難局を茶化してしまう。だが、真剣だし、皮肉屋でもない。また、友情に厚いくせに、表面上の態度は、淡々としてそつがない。そのギャップが、奇妙な浮遊感(現実的でない、フィクションであることを意識させる)とともに、人物として、また文体としての一貫性を小説にもたらす。

以上が、ハードボイルド探偵、マーロウに関する分析である。

それで、ハードボイルドと吟遊詩人の間に橋渡しをしなければならないわけだが。マーロウのもつようなギャップが、「吟遊詩人のまなざし」のうちにもある。それは、吟遊詩人が、あの独特の「遠さ」の距離感によって、繊細な感情のなかを「行き来」することにかかわる。

吟遊詩人は、語り手なのである。ただの旅人ではなく、事件や出来事に関心をもつだけでなく、それを外から眺めた物語にできなければならない。そこで、マーロウが「友情」と「クールさ」の間を、「センチ」と「気の利いた台詞」の間を行き来するように、吟遊詩人も、ひとつの出来事に対して、さまざまな感情の間を行き来できなければならない。そのことによって、かなしみに対しても、よろこびに対しても、距離を置いて語ることができるようになる。もし、自在な行き来がなく、現実に距離を置くこともできなければ、その語りは制約された、ぎこちないものになってしまう。

そして、この「行き来」は、吟遊詩人が、どこにも定住しないことを、武術の言葉で言えば、「居着かない」ことをも示している。吟遊詩人は「旅」をする。それは、物理的な移動というより、語りの立ち位置についてだ。自由に、立ち位置をずらせること。たとえば、多くの人が「おお、なんというかなしみ」と言う場面で、「かなしみ」に片足を置きながら、一歩離れた場所にも他方の足を伸ばせること。それが語りの幅を広げる。

さらに、おそらく思想についても同じことが言える。人生は苦である、とか、なにもかもがかなしい、とか、逆に、どこにでもよろこびを見出そう、とか、愛がもっとも大切である、とか。そのどれも否定せずに、そのなかへ踏み入ろうとさえする。けれども、ひとつところに居着くことがない。また、べつのものの見方へ、生の態度へと、足場を移す。

このような、ものの見方や感情や思想における、一所不住のあり方は、ハードボイルドと相通じてもいる。マーロウが、あらゆる事件の現場に出入りし、登場人物のみんなと接触をもちながら、結局のところ、事件を自分の支配下におかず(ある程度をなりゆきにまかせる)、また、登場人物の誰とも固定した関係をもたないで、オフィスにひとりきりで結末を迎えることに対応する、ように思える。

吟遊詩人は、べつにハードボイルドではない。ただ、いかなるときも、あの「遠さ」の感覚を忘れないことで、固定した感情やものの見方に囚われないでいることが、求められると思う。その姿勢が、旅心のみならず、語り手としての自由な立ち位置と不可分であると、言える。