2014年2月2日日曜日

【吟遊トーク】里人さんの読書遍歴

里人(りじん)さんは、いま博士課程の読書家です。年齢は僕より少し上。小説をメインに読まれるようです。今回は、こんなテーマでお話を伺いました。

「わたしはミステリーに対して違和感を覚えるのに、なぜミステリーに惹かれるのか。」

〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜

<小学生の頃>
里人さんが本をよく読むようになるきっかけは、子供向け『三銃士』(アレクサンドル・デュマ)だったという。

里人「ちょうどその前にNHKアニメ三銃士を観ていました。それと同じ話かな、と思って。『三銃士』は3巻本で、上中下とあった。だけど、僕は上下と読んで、あとから中巻を読んだんです。中巻があるのに気がつかなかったんですね。それがすごく面白かった」

ーー順番をまちがえたことが、ですか。

里人「さきに読まなければならないことを、あとから読むじゃないですか。それがはまっていく感じが面白かった。小説をまっすぐ読むほかに、後戻りしたり、知らないことを補ったりする読み方ができるんだな、と思ったことが大きかったんです」

話はミステリーに焦点を合わせて、ホームズとポアロへ。小学校中学年くらいで、これらの作品には馴染んでいたとのこと。

里人「やはりNHKのドラマで観て、小説も読んでいました。あと、江戸川乱歩も少し。探偵があざやかに謎を解いて、悪者はさばかれちゃうという全能感が好きでした」

ーーさっきの『三銃士』は冒険活劇だと思いますが、中巻を抜かしてしまったことが、ミステリーの読み方と重なるのでしょうか。『三銃士』では、あとからパズルがはまっていく読書体験をされたわけですよね。

里人「あとから意味がわかる、という点では似ていたのかもしれないですね。ただ、ミステリーの方は最後に伏線がきちんと回収されるのですが、『三銃士』では作者が仕組んでいない仕方で、逸脱したのですよね。その読み方が面白かった、という差もあります」

<中学生時代>
ーー中学生時代へ進んでもいいですか。

里人「あまり本を読みませんでしたが、高校の受験勉強をしているとき、国語の勉強で出会って、いまだに読んでいる作家がふたりいます。ひとりは福永武彦です」

『廃市』が過去の入試問題にあったのがきっかけ、という。

里人「もうひとりは吉行淳之介です。性を主題に書いているひとですね。受験勉強で出会った「食卓の光景」という短編があって、それを本屋さんで探してぜんぶ読みました」

<小説とは>
ところで、小説というものについてこんなエピソードも。

里人「塾の友達に言われたことがあって。"言いたいことがあるなら直接書けばいいのに、なんで小説を書くのか" と。論説文やエッセイで説明すればいいじゃないか、ということですね。僕はそれに答えられなかったんですよ。中学2年生のとき」

その問いに答えられたのはしばらく経ってからだ。

里人「高校3年生の頃、筒井康隆のエッセイを読んでいて、"タイトルは小説をまとめたものではない。もし、ほんとうに小説を要約しようとするならば、タイトルは小説の本文をすべて書いたものになる" という話がありました。それはユーモアなんだけど、僕は "小説は要約できない" という意味に受け取ったんです。そのときに初めて、あの問いに答えられるな、と思ったんです」

<詩>
大学に入ると、フランスの詩人ポール・エリュアールの作品を読み、それがフランス文学への入口になった。しかし、ここでも詩と小説の対立は続き、小説家であるミラン・クンデラを研究の対象として選ぶ。クンデラはこんな風に批判していた。「エリュアールのなかにある叙情的な高揚が、排他的で、もっと言えば全体主義的になりうる」と。

クンデラは里人さんの小説に対する考え方の核心に触れたようである。

<わたしはミステリーに対して違和感を覚えるのに、なぜミステリーに惹かれるのか>
ここで、里人さんはミステリーについての最初の問いに戻る。

里人「大学に入って、小説の理論を勉強した時期があるんですね。"伏線とエピソード" というテーマについて考えました。エピソードというものが、小説の網の目のなかで伏線として機能する、ということがあるじゃないですか。挿話なんだけど、結末の方で意味のある挿話になる……という」

ーーよくわからなかったエピソードが物語の筋に回収されていく、ということですね。

里人「そう。一方で、伏線にならないエピソードは、完全に挿話的なもの、最後まで回収されないわけです。『不滅』のなかでクンデラが言っているのですけれども、"アリストテレスの『詩学』のなかで、挿話は不当に低く位置づけられている。小説を読んでいて、ある場面が美しいとか、言葉が美しいとか、情景が美しいと思う。しかし、それが伏線として回収されてしまうと、その美しさが損なわれるような気がする" のです」

穏やかな調子で里人さんは続けてくれる。

里人「挿話は、独立した美しさをもつのに、それが伏線として回収されたときに、なにかを用意するものでしかなかったんだ、と思わされて残念になる。ある階段みたいなものとして作品を考えると、挿話がその一ステップにしかならない、ということへの後悔。自分としてはそこに留まっていたいのだけど、どんどん上へ行ってしまう、というような」

ーークンデラは挿話の独立性を大切にしているのですね。けれども、ミステリーに代表されるような小説のあり方だと「エピソード(挿話)」は最後には「伏線」として回収されてしまう。

里人「これが、僕のミステリーに対する曖昧な態度につながっているんですよね。僕は "ミステリー" について、ある構築されたもの、どんな細部も意味をもって、きちんとある一点へ収束していくようなものを想定しているのですけれど、それによって、場面の美しさが損なわれるように思うことがあるわけです」

ーーシャーロック・ホームズでも、ステッキでビシッと打つような魅力的な場面がありますね。

里人「そう、そう。あります。そういう楽しさが損なわれるような気がしてしまうのです。とりわけ大学院に入ってから、自分が "場面だけが突出している" のを楽しむこと、"個別のエピソードに対する偏愛" をもっていることに気づきました」

里人さんはエピソードをそのまま、それだけで愛する。だからこそ、それを伏線として一本のあらすじに回収してしまうミステリーには「違和感」を覚える。

ーーだけど、回収されるのが嫌だと言っても、独立したエピソードだけでは小説として成り立たないから……。

里人「どこかで小説が物語として読まれるものである以上、カタルシス(快感としての物語の解決)というものは必要だと思うんですよ。だけど、そのカタルシスがまったく意外な形で訪れる、構築されたものの外から訪れる、そういうことがあるとすれば、それがほんとうに面白い小説だと僕は思います」

ーー「物語の外部からカタルシスが訪れる」……ということですが、すると読者と本との出会い方やかかわり方も、小説の面白さの分岐点になるのでしょうか。『三銃士』もそうでしたよね。

里人「もしかしたら、読者にとっても予期せぬ仕方で出会うこともあるでしょうし、そういうことも含めて、書かれている現場だけではなくて、それが手に取られる、という契機を自分は重視していると思います」

里人さん、どうもありがとうございました。