四月一日のエイプリルフールはおもしろい嘘を考えていたら、俳句もできずに二日を迎えた。
剥き出しの四月二日のアスファルト
札幌では雪解けてアスファルトが顔を出す頃。「四月」は季語だが、「二日」はとくべつな日というわけでもない。ただ、「四月二日」のリズムを詠み込みたくなった。
犬ふぐり色に暮れゆく北の空
3月に東京で見た犬ふぐりの可憐な青色を、ここ北国では見上げる。
ふうわりと倒れ伏しけり春の昼
少し疲れて、ふんわりとベッドへ。次の「つちふる」は黄砂のことで、春の季語。
霾(つちふる)やみな手探りでドア求む
白樺のささやか芽吹く上の方
「上の方」の下五は、芭蕉の句「郭公(ほととぎす)声横たふや水の上」を思いながら、浮かべた。
早駆けやナイキが踏める雪の跡
5℃6℃余寒の冷めぬサッポロペツ
「ナイキ」は靴のメーカー。ランナーも増える春。二番目の句はいろいろと変わっているが、全体として調子整う気がしている。
クロッカスやっとこ出ずる小人かな
天竺の座を開かんとクロッカス
二三寸のクロッカス咲き始め、小人のように淡い。天竺はインドのことだが、「天」をも意味する。なんとなく、開きかけたクロッカスにダンテの『神曲』天国篇のマリア、天使ら居並ぶ様を認めた。
盛り土や春の草花植えるまで
晩春はやさしさひとつ残しけり
大通公園の花壇には、丘のように盛り土がなされているが、まだ花は植えられていない。すぐにパンジーに彩られ、五月にはチューリップが風に揺らぐ。
ブランコのふたつ揺れるや五人の子
道すがら、小さな発見。子供たちもスキーウェアでなく外遊び。
くれないのはつかに見えて山桜
木の芽見ればひとつやふたつでなし
円山公園にて。山桜、急な暖かさで花開く前の姿は、ほんとうにほのかな赤いつぼみであった。木の芽は一斉に芽吹いた。見かければ、すでにひとつふたつでない。
同じとこ飛び跳ねている蛙(かわず)かな
おいしいなオレンジジュース春の闇
蛙は自分の身を笑って。オレンジジュースの酸っぱさが春の暗がりに溶けてゆく。
春なれやあれはこぶしか木蓮か
目の前に「母子像」の彫刻あり、上五は「母子像や」と置くか、迷ったが初心のまま「春なれや」とすこし無造作に置いた。おそらくは白木蓮であった。さあ、春の大風も吹く頃、目に光を宿して晴々した日々を歩もうと思う。
目に光あらばやゆかん春疾風
a音を重ねて。いざ。
2014年4月27日日曜日
僕の好きな俳句たち(2)
(1)に続いて、夏の句を行こう。
羅(うすもの)をゆるやかに着て崩れざる 松本たかし
山本健吉氏の評によると、「おそらくは中年の女人の夏姿である」。作者は泉鏡花の愛読者でもあり、「この句は鏡花の小説の挿絵」などの美人画の匂いがある、とのこと。「かな」「けり」で終わらずに、「崩れざる」と散文調なのも「ゆるやか」である。かつ、崩れそうな感じも出ている。
うすものを着て雲の行くたのしさよ 細見綾子
蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」に通じるところがある。ひらがなが多いのも、やわらかな生地や日差しを感じさせる。「うすもの」は夏の季語だが、まだ初夏じゃないだろうか。
ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
「旅先で見たある町の花火の美しさが、何時までも心に残っている。夜寝てからも、闇の中にその花火が見え、胸の中にぱっと花開く。」と山本健吉氏。「ねむりても」の「な行」「ま行」のまどろみから入り、まぶたの裏のくらがりに「花火」をもってきて、「胸にひらく」と散文的にしめくくる余韻。
谺(こだま)して山時鳥(やまほととぎす)ほしいまま 杉田久女
この句は『ホトトギス』に投稿したときには没になり、毎日新聞では名句として選ばれたという。作者は「ほしいまま」の五文字を得るのに苦労したらしい。なるほど、突き抜けた感じや奔放さが、この句をふつうでないものにしているところ、評価も分かれたのかもしれない。
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫(かぶとむし) 高野素十
子供がかぶとむしの角に結わえた糸を引っ張っても、かぶとむしがこらえる様子を描いた、と評あり。仮に、そのように全体像を描かなくても、大写しのかぶとむしとその角から伸びる糸を思い描くだけでも、面白い。ふたつの「つ」の音も子供らしさを表す。
翅(はね)わつててんたう虫の飛びいづる 高野素十
山本健吉氏は、「翅わつて」の動作は知っていても、それを言い取ることはなかなかできない、との評。まことにその通りだと思う。その始まりの五文字に句のおもしろさが表れる。
白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか 高浜虚子
「中七の「いふといへども」と、おおらかに停滞した調子が」白牡丹に合う、と山本氏は言う。「大人(たいじん)の風格ある句」とも。ほんとうに、虚子はどこかぼやけたような句をゆったりと詠む。けれども、あとから生姜の辛さが染みてくるジンジャーエールのように、味わいは奧が深い。
羅(うすもの)をゆるやかに着て崩れざる 松本たかし
山本健吉氏の評によると、「おそらくは中年の女人の夏姿である」。作者は泉鏡花の愛読者でもあり、「この句は鏡花の小説の挿絵」などの美人画の匂いがある、とのこと。「かな」「けり」で終わらずに、「崩れざる」と散文調なのも「ゆるやか」である。かつ、崩れそうな感じも出ている。
うすものを着て雲の行くたのしさよ 細見綾子
蕪村の「夏河を越すうれしさよ手に草履」に通じるところがある。ひらがなが多いのも、やわらかな生地や日差しを感じさせる。「うすもの」は夏の季語だが、まだ初夏じゃないだろうか。
ねむりても旅の花火の胸にひらく 大野林火
「旅先で見たある町の花火の美しさが、何時までも心に残っている。夜寝てからも、闇の中にその花火が見え、胸の中にぱっと花開く。」と山本健吉氏。「ねむりても」の「な行」「ま行」のまどろみから入り、まぶたの裏のくらがりに「花火」をもってきて、「胸にひらく」と散文的にしめくくる余韻。
谺(こだま)して山時鳥(やまほととぎす)ほしいまま 杉田久女
この句は『ホトトギス』に投稿したときには没になり、毎日新聞では名句として選ばれたという。作者は「ほしいまま」の五文字を得るのに苦労したらしい。なるほど、突き抜けた感じや奔放さが、この句をふつうでないものにしているところ、評価も分かれたのかもしれない。
ひつぱれる糸まつすぐや甲虫(かぶとむし) 高野素十
子供がかぶとむしの角に結わえた糸を引っ張っても、かぶとむしがこらえる様子を描いた、と評あり。仮に、そのように全体像を描かなくても、大写しのかぶとむしとその角から伸びる糸を思い描くだけでも、面白い。ふたつの「つ」の音も子供らしさを表す。
翅(はね)わつててんたう虫の飛びいづる 高野素十
山本健吉氏は、「翅わつて」の動作は知っていても、それを言い取ることはなかなかできない、との評。まことにその通りだと思う。その始まりの五文字に句のおもしろさが表れる。
白牡丹(はくぼたん)といふといへども紅(こう)ほのか 高浜虚子
「中七の「いふといへども」と、おおらかに停滞した調子が」白牡丹に合う、と山本氏は言う。「大人(たいじん)の風格ある句」とも。ほんとうに、虚子はどこかぼやけたような句をゆったりと詠む。けれども、あとから生姜の辛さが染みてくるジンジャーエールのように、味わいは奧が深い。
2014年4月26日土曜日
【さいとうギャラリー】ナカジテクス展
2014年4月26日(土)大通にある「さいとうギャラリー」(1階はH&M が入っているビルの5F)にゆき、ナカジテクスの展示を観てきました。
「有限会社ナカジテクス」は、実際の有限会社ではなく、道都大学の中島ゼミのある部門(?)です。
「ナカジ」は中島ですが、「テクス」は「テキスタイル」から。
テキスタイルとは、織物、染色、布地などを使ったアート作品のこと。だと、思うのですが、手元の英和辞書には "texstyle" の単語は載っていないですね。
今回の展示では、中島ゼミの現役生とOBたちがひとりずつスペースをもってグループ展を作っています。なかなか広くて見応えがありました。
これはバナナや虫をあしらったデザインで、掛け布(?)と立体、手前にはてぬぐい。
京風小物にでもありそうな、和風バッグ。と思いきや、よくよく見ると干しエビです。凝ったデザイン。
これは絵画的な(シルクスクリーンなのでしょうか)作品ですが、布地にプリント。とてもおいしそうなメロンでした。
おいしそうなスコーン。これはテキスタイルではありません。二個で150円でした。
会期は2014年4月27日(日)まで。ここには挙げていない、可愛い作品もチャーミングなものも、渋いものもあり、楽しめました。(僕の好きな篠木さんの白い作品もありました。そうそう、トオンさんで個展をなさっていた森迫(もりさこ)さんの小品集も。)
2014年4月25日金曜日
【ギャラリー】北のモンパルナス@札幌
初めて、ギャラリー「北のモンパルナス」へ行ってきた。札幌の琴似にある。JRからも地下鉄(東西線)からも徒歩5分ほど。当日は「百花繚乱 女流展」の開催中であった。
藤野千鶴子 宇宙家族B アクリルF6 |
ギャラリーはオーナーの女性とお嬢様のふたりで運営されている。ふだんはお嬢様の方が受付や案内をなさっているようだ。
荒川敬子 冬日 油彩 |
ふしぎなお茶を出してくれた。ほうじ茶なのだが、どうもまろやかで刺激的な味がする。あとで聞いたら、メープルシロップに漬けた生姜を入れているそう。
菅野深雪 I am a rock(サイモン&ガーファンクル)カリグラフィー |
今回の展示は、イレギュラーな企画だったようで、テーマを決めず、オーナーの知り合い(女流限定)に次々と声を掛けて絵を集めたようである。ふだんはコレクションから常設展をやっているらしい。
大田美紀 仲良し 水彩 |
そのため、今回はベテランの作家さんもアマチュアの作家さんも、年齢も問わず、作品の質や手法に関しても入り乱れての展覧会となったようだ。
細木博子 時の流れの中で 油彩M10 |
たしかに玉石混交と言うのか、いろいろな作品があふれていた。このブログ記事では僕の好みだった作品を(作家の背景も知らないまま)ただ載せている。(掲載許可あり。)
添田恵子 無敵 色鉛筆 色紙 |
2011年に始まって3年ほどのギャラリー、これから多くのひとに広めてゆきたいと言う。なお、「百花繚乱 女流展」は2014年4月1日(火)〜4月26日(土)まで。
【ギャラリー情報】
北のモンパルナス
営業日:火曜〜土曜
営業時間:11:00〜18:00
定休日:日曜・月曜・祝日
TEL:011ー302ー3993
〒063-0804
札幌市西区二十四軒4条3丁目3ー15清水マンション105
(札幌第一病院 東となり)
※マンションの一室であるため、ぱっと見てわかりづらい。看板もないので、第一病院を頼りに探すとよいでしょう。
2014年4月24日木曜日
雨と木曜日(4)
***
一日に何杯も珈琲を飲みながら仕事をするひとがいるけれど、体が丈夫なのだろうか。少なくとも僕は、珈琲には体に負担をかける部分があると感じる。それはアルコールと似ているのだろう。連日、たくさん飲むものではない。だから、珈琲の愛飲家たちも「休肝日」ならぬ「休琲日」(きゅうひいび)を設けてみたら、よいかもしれない。とりあえず試してみたところ、翌朝の珈琲はとびきり美味しかった。
***
「ベルリン天使の詩」という映画を観た。ベルリンの壁が崩壊する2年前、ヴィム・ヴェンダース監督がベルリンを舞台に撮った。人間には見えない天使たちが図書館に集い、広場で地下鉄で屋上で、孤独なひとびとを見守る。モノクロの映像が美しい。途中、天使のひとりが人間の女性に恋をして自らも人間になる。そこから映像はカラーに変わる。さあ、人間になって初めて彼のしたことは、一杯の珈琲を屋台で飲むこと。温かそうにカップを包んで、笑顔を浮かべる。
2014年4月18日金曜日
【ご報告】本のカフェ第三回@札幌(カフェ・エスキス)
2014年4月17日(木)、札幌は円山のカフェ・エスキスで3回目の本のカフェが開かれた。時間は18:30〜21:30。人数は7名。店内は照明をおさえて、穏やかで静かなムードのなか、自己紹介が始まる。音楽はマスターに頼んでダウランドのリュート曲をかけていただいた。
一冊目は、星野道夫『森と氷河と鯨』。アラスカの写真集でもあり、アメリカ先住民の言葉と著者の体験談が綴られる。副題は「ワタリガラスの伝説を求めて」。ユーラシアと北米に分布するワタリガラスについては、各地に伝承が残されている。紹介者の目には、アラスカの自然を愛して伝承を求める著者は、目に見えない神話の世界とこの世界をつなぐ鳥のように映る。冒険中に命を落とした星野さんは「最後にワタリガラスと一体になったのではないか」と結ぶ。
二冊目は、よしもとばなな『王国その3 ひみつの花園』。ばななさんは目に見えないものの価値を一貫して大切にし、幽霊や死後の世界の話をするのが好きだそう。彼女は自分を「ヒーラー」(癒し手)とも呼ぶ。そんな彼女は、王国シリーズで「あなたの心に王国を作りなさい」と直接的に表現した。紹介者は、よしもとばななの父、吉本隆明の心的現象論や、彼に影響を与えた三木成夫の生物学にも触れながら、「隠せるものはなにもない。みな、からだを通して表に出るのではないか」と述べる。
三冊目は、イタリアの文学者パピーニの短編。19世紀末から20世紀前半を生きた。彼は32歳で自叙伝を書くという変わり者だったそうだが、その本は「自分は救世主にはなれない」という壮大で悲観的な言葉に終わる。ここに至る、20代の気迫のある作品がとりわけ面白いそうだ。紹介者は、5分以上、切迫したムードの漂うパピーニの短編を朗読してくださった。それは激しい自己意識の表出であり、自分は自分自身と訣別したい、という詩のような文章だった。
四冊目は、望月通陽が絵を描き、谷川俊太郎が詩をつけた『せんはうたう』。望月さんは染色、版画、立体作品も作る多才なひと。紹介者は、「この本は、道楽です」とはじめに断る。なるほど、本が作られたプロセスは偶然がきっかけで、出版元が出している本はこれ一冊だけ、装丁は「フランス装」と呼ばれる手作業によるもの。お金も手間暇もかかっている。でも、だからこそすばらしい本ができた。箱から取り出すときにからだが震えるほど、だったと喜びを伝えてくれた。
そのあとは、後半のフリートークタイム。紹介がテンポよく進んだために、90分の時間が残り、いろんなテーマの雑談がされた。アート・ギャラリーをめぐる状況、北海道のローカルな話(札幌や倶知安、寿都など)、図書館の必要性、写真からカリグラフィーまで。21時半を回って、いったん終了したが、続けて飲み物を注文し、結局、全員がそれから1時間以上、語らっていた。
いままでで一番こぢんまりした集まりでもあり、親しく和やかな雰囲気で進んだのはよかった。みなさまと、そして、ご厚意で場所を貸してくださったエスキス・オーナーである中川夫妻の協力のおかげです。改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。
ワタリガラスの絵葉書もみえる |
一冊目は、星野道夫『森と氷河と鯨』。アラスカの写真集でもあり、アメリカ先住民の言葉と著者の体験談が綴られる。副題は「ワタリガラスの伝説を求めて」。ユーラシアと北米に分布するワタリガラスについては、各地に伝承が残されている。紹介者の目には、アラスカの自然を愛して伝承を求める著者は、目に見えない神話の世界とこの世界をつなぐ鳥のように映る。冒険中に命を落とした星野さんは「最後にワタリガラスと一体になったのではないか」と結ぶ。
よしもとばななについて |
二冊目は、よしもとばなな『王国その3 ひみつの花園』。ばななさんは目に見えないものの価値を一貫して大切にし、幽霊や死後の世界の話をするのが好きだそう。彼女は自分を「ヒーラー」(癒し手)とも呼ぶ。そんな彼女は、王国シリーズで「あなたの心に王国を作りなさい」と直接的に表現した。紹介者は、よしもとばななの父、吉本隆明の心的現象論や、彼に影響を与えた三木成夫の生物学にも触れながら、「隠せるものはなにもない。みな、からだを通して表に出るのではないか」と述べる。
笑顔で身振り手振り/ 真剣にメモをとる |
三冊目は、イタリアの文学者パピーニの短編。19世紀末から20世紀前半を生きた。彼は32歳で自叙伝を書くという変わり者だったそうだが、その本は「自分は救世主にはなれない」という壮大で悲観的な言葉に終わる。ここに至る、20代の気迫のある作品がとりわけ面白いそうだ。紹介者は、5分以上、切迫したムードの漂うパピーニの短編を朗読してくださった。それは激しい自己意識の表出であり、自分は自分自身と訣別したい、という詩のような文章だった。
パピーニを朗読 |
四冊目は、望月通陽が絵を描き、谷川俊太郎が詩をつけた『せんはうたう』。望月さんは染色、版画、立体作品も作る多才なひと。紹介者は、「この本は、道楽です」とはじめに断る。なるほど、本が作られたプロセスは偶然がきっかけで、出版元が出している本はこれ一冊だけ、装丁は「フランス装」と呼ばれる手作業によるもの。お金も手間暇もかかっている。でも、だからこそすばらしい本ができた。箱から取り出すときにからだが震えるほど、だったと喜びを伝えてくれた。
パワーポイントの資料 |
そのあとは、後半のフリートークタイム。紹介がテンポよく進んだために、90分の時間が残り、いろんなテーマの雑談がされた。アート・ギャラリーをめぐる状況、北海道のローカルな話(札幌や倶知安、寿都など)、図書館の必要性、写真からカリグラフィーまで。21時半を回って、いったん終了したが、続けて飲み物を注文し、結局、全員がそれから1時間以上、語らっていた。
フリートーク |
記念撮影 |
いままでで一番こぢんまりした集まりでもあり、親しく和やかな雰囲気で進んだのはよかった。みなさまと、そして、ご厚意で場所を貸してくださったエスキス・オーナーである中川夫妻の協力のおかげです。改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。
紹介された本たち |
【書誌情報】
『森と氷河と鯨』、星野道夫、世界文化社、1996
『王国その3 ひみつの花園』、よしもとばなな、新潮社、2005
『ヒトのからだ:生物史的考察』、三木成夫、うぶすな書院、1997
『心とは何か:心的現象論入門』、吉本隆明、弓立社、2001
『逃げてゆく鏡』、ジョヴァンニ・パピーニ、河島英昭訳、国書刊行会、1992
『せんはうたう』、絵:望月通陽、文:谷川俊太郎、ゆめある舎、2013
追記:こちら に今回の本のカフェについて、参加者の方が書いてくださったブログ記事があります。詳細なレポートで雰囲気が伝わります。(ブログ:静寂(しじま)を待ちながら/「第3回「本のカフェ」に参加しました。」)
追記:こちら に今回の本のカフェについて、参加者の方が書いてくださったブログ記事があります。詳細なレポートで雰囲気が伝わります。(ブログ:静寂(しじま)を待ちながら/「第3回「本のカフェ」に参加しました。」)
2014年4月17日木曜日
雨と木曜日(3)
白樺の枝先がわさわさ、もしゃもしゃしてくる。ぱっと見では真冬と変わらないが、よく目を凝らすと若い芽が吹いている。4月も半ば、相も変わらず裸のままの白樺だが、頂の枝に春は来にけり。夏の緑にあふれている頃も、秋の最後の一葉が落ちようとする頃も、白樺は魅力的なたたずまいだが、春先の様子を観察したのは初めてでした。
***
映画、アナと雪の女王を観てきた。ディズニー映画にはずいぶんご無沙汰していたけれど、とても楽しめた。ほとんど感動したと言ってもいいくらい。この映画は、アンデルセン「雪の女王」からインスピレーションを得て作られたようだが、なるほど、絵本で見たり心で思い描くあの北欧の世界が、ファンタスティックに表現されている。また、数年来ジブリのような陰影のある世界に、子供向けの作品では親しんでいたため、シンプルさに心打たれた。
***
サイクリングの本。といっても、旅行記ではなくて、イギリスの田舎道を走った著者によるペン画の画集。ときには、自転車を漕ぐ姿も描き込まれていて、それは実写でなく想像の中の自画像なのだろう、と思わせる。著者は19〜20世紀を生きており、自転車の歴史の始まりを同時代人として知っていた。そう思って読むとなお面白い。そういえば、ホームズでも自転車乗りの婦人の出てくる作品があり、物珍しいアイテムとして耳目を引いていた様子がわかる。
【書誌情報】『サイクリング・ユートピア』(画集)、フランク・パターソン著、野川政美+文遊社編集部編、文遊社、2013
2014年4月15日火曜日
【ご案内】本のカフェ第四回@札幌(菊水、プランテーション)
本のカフェは、好きな本の紹介を通して、集まったひとがゆるやかに交流するイベントです。
場所:プランテーション(森彦系列のカフェ)東西線「菊水駅」徒歩10分
日時:5月3日(土)14時ー17時
定員:15名ほど
参加費:1000円+ワンドリンク。
*「プランテーション」は大きな倉庫を改築したカフェ。昭和の情緒とモダンな内装が同居している稀有な場所です。その3階、光がたくさん入る屋根裏の広いスペースを貸し切り。*
(Facebookページ:Plantation By MORIHICO)
内容:本の紹介者3〜5人と、オブザーバー(聞くひと)数人。司会・進行は木村が担当します。前半90分は、ひとり持ち時間15分〜20分で本の紹介。後半90分は、フリータイムで自由におしゃべり。(下記の「アートルーム」あり。)
→ 17時終了のあとは、そのまま2階のカフェスペースで夕食をとれます。希望者のみの2次会です。
アートルーム:今回は「アート」に関する小物を持ち寄る場を、後半のフリータイムに設けます。展示のダイレクトメール、展覧会のちらし、図録、絵葉書、雑貨、自分の作品(のカタログやポストカード)etc. なんでも結構です。自由参加ですので、とくになければ持ってこなくてもOK.
参加者:紹介者は、紹介する本の現物をなるべく持参。レジュメは必要なし。オブザーバー(紹介しないひと)はなにもいりません。みな、自分の好きな本を持ち寄ってフリータイムに紹介し合うのは自由です。
本の選び方:本は、なんでもよいです。古典、流行りの小説、学術書、新書、ライトノベル、雑誌、ムック本、画集など。
大切なこと:ゆるやかな雰囲気を大切にしたいと思っています。課題図書のある読書会のように、正確に内容を要約、説明する必要はありません。思い入れのあるところを読み上げたり、感想を述べていただければ十分です。オブザーバーの方も、知識のあるなし、自分が「読書家」や「本好き」と呼べるかなど気にせず、気軽にご参加ください。いっしょに楽しい時間を作れれば幸いです。
主催:木村洋平
*追記*
紹介される本は、稲垣足穂の『一千一秒物語』、Helmut Newtonの写真集、山田詠美『ぼくは勉強ができない』、片山令子『ブリキの音符』、佐々木美智子(聞き書き:岩本茂之)『新宿、わたしの解放区』の5冊です。
*プランテーションへの道順*
菊水駅の4番出口を出て、出口の向きとは逆方向へ大きな通りを歩きます。10分ほどゆくと、通りが曲がり始める交差点(菊水8ー2)へ出ます。(右手前方にセイコーマートが見えます。)そこを左折して少しゆくと、右手に大きな倉庫が見えます。それがプランテーションです。その3階にお越しください。
*お車でお越しのお客さまへ*
駐車場は、お店の右側の道を入ったところに十二台分あります。ただ、イベント以外のお客様も多くいらっしゃる時間帯ですので、公共交通機関でお越しいただけると助かる、とのことです。
日時:5月3日(土)14時ー17時
定員:15名ほど
参加費:1000円+ワンドリンク。
*「プランテーション」は大きな倉庫を改築したカフェ。昭和の情緒とモダンな内装が同居している稀有な場所です。その3階、光がたくさん入る屋根裏の広いスペースを貸し切り。*
(Facebookページ:Plantation By MORIHICO)
内容:本の紹介者3〜5人と、オブザーバー(聞くひと)数人。司会・進行は木村が担当します。前半90分は、ひとり持ち時間15分〜20分で本の紹介。後半90分は、フリータイムで自由におしゃべり。(下記の「アートルーム」あり。)
→ 17時終了のあとは、そのまま2階のカフェスペースで夕食をとれます。希望者のみの2次会です。
アートルーム:今回は「アート」に関する小物を持ち寄る場を、後半のフリータイムに設けます。展示のダイレクトメール、展覧会のちらし、図録、絵葉書、雑貨、自分の作品(のカタログやポストカード)etc. なんでも結構です。自由参加ですので、とくになければ持ってこなくてもOK.
参加者:紹介者は、紹介する本の現物をなるべく持参。レジュメは必要なし。オブザーバー(紹介しないひと)はなにもいりません。みな、自分の好きな本を持ち寄ってフリータイムに紹介し合うのは自由です。
本の選び方:本は、なんでもよいです。古典、流行りの小説、学術書、新書、ライトノベル、雑誌、ムック本、画集など。
大切なこと:ゆるやかな雰囲気を大切にしたいと思っています。課題図書のある読書会のように、正確に内容を要約、説明する必要はありません。思い入れのあるところを読み上げたり、感想を述べていただければ十分です。オブザーバーの方も、知識のあるなし、自分が「読書家」や「本好き」と呼べるかなど気にせず、気軽にご参加ください。いっしょに楽しい時間を作れれば幸いです。
主催:木村洋平
〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜・〜
*追記*
紹介される本は、稲垣足穂の『一千一秒物語』、Helmut Newtonの写真集、山田詠美『ぼくは勉強ができない』、片山令子『ブリキの音符』、佐々木美智子(聞き書き:岩本茂之)『新宿、わたしの解放区』の5冊です。
*プランテーションへの道順*
菊水駅の4番出口を出て、出口の向きとは逆方向へ大きな通りを歩きます。10分ほどゆくと、通りが曲がり始める交差点(菊水8ー2)へ出ます。(右手前方にセイコーマートが見えます。)そこを左折して少しゆくと、右手に大きな倉庫が見えます。それがプランテーションです。その3階にお越しください。
*お車でお越しのお客さまへ*
駐車場は、お店の右側の道を入ったところに十二台分あります。ただ、イベント以外のお客様も多くいらっしゃる時間帯ですので、公共交通機関でお越しいただけると助かる、とのことです。
2014年4月14日月曜日
僕の好きな俳句たち(1)
山本健吉『俳句鑑賞歳時記』を読んでいると楽しい俳句に出会うので、いくつか紹介したい。春の句から。
雪とけて村いっぱいの子ども哉 小林一茶
こういう無邪気な句はとても好きだ。すらりと読めてわかりよく、それでいて一文字もゆるがせにしない。
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女
これも直接的な句。「外に出てみなさいよ。触れそうなほどの春の月です」という、冒頭の強い呼びかけがやわらかい「春の月」に終止してゆく様は見事。
ふらここの会釈こぼるるや高みより 炭太祗
「ふらここ」は「ブランコ」のこと。唐代の女性を思い描いているだろう、と山本健吉氏は読む。西洋絵画にもこういう構図があった。
灰捨てて白梅うるむ垣ねかな 野沢凡兆
これは一見、ふしぎな句。灰を捨てると白梅が「潤む」のはなぜなのか。なんとなく、そう見えるのか。それとも、もともと雨に濡れていて、それが灰で引き立つのか。いずれにせよ、単純な描写のなか、俗な風景のなかに、奥行きと俗でない美しさが見える。作者は芭蕉の門。
一昨日はあの山越(こえ)つ花盛り 向井去来
芭蕉は「この句、いま聞く人あるまじ。一両年を待つべし」といったという。「おととい越えた山が、いまは花盛りになったな。あのときはまだつぼみか二分、三分咲きだったのに。」といった意味。これも単純な句のようで、その長い「振り返り」の仕草が印象に残る。芭蕉が「二年待たないと理解者は出ない」と言ったのも、単調のなかの気長さ、それは春の日の永さにも通じる、それがむずかしいと感じたからかもしれない。
虹なにかしきりにこぼす海の上 鷹羽狩行
「海上にかかった虹が、何かしきりに、さんさんと光りながらこぼす、微塵のようなもの。」と山本健吉氏は評している。「虹」は夏の季語。これは、明るく一息に読み下せる、むずかしくない句でありながら、どこまでも余韻を残す。
日盛りに蝶のふれ合う音すなり 松瀬青々
「夏の蝶を詠んだ傑作。「しづかさや岩にしみ入る蝉の声」に匹敵する。」と山本健吉氏の評。大変に褒めている。(芭蕉と比べているわけだから。)「心の耳」で聴く、二匹の羽の擦れ合う音。
【書誌情報】『俳句鑑賞歳時記』、山本健吉、角川ソフィア文庫、2000
雪とけて村いっぱいの子ども哉 小林一茶
こういう無邪気な句はとても好きだ。すらりと読めてわかりよく、それでいて一文字もゆるがせにしない。
外(と)にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女
これも直接的な句。「外に出てみなさいよ。触れそうなほどの春の月です」という、冒頭の強い呼びかけがやわらかい「春の月」に終止してゆく様は見事。
ふらここの会釈こぼるるや高みより 炭太祗
「ふらここ」は「ブランコ」のこと。唐代の女性を思い描いているだろう、と山本健吉氏は読む。西洋絵画にもこういう構図があった。
灰捨てて白梅うるむ垣ねかな 野沢凡兆
これは一見、ふしぎな句。灰を捨てると白梅が「潤む」のはなぜなのか。なんとなく、そう見えるのか。それとも、もともと雨に濡れていて、それが灰で引き立つのか。いずれにせよ、単純な描写のなか、俗な風景のなかに、奥行きと俗でない美しさが見える。作者は芭蕉の門。
一昨日はあの山越(こえ)つ花盛り 向井去来
芭蕉は「この句、いま聞く人あるまじ。一両年を待つべし」といったという。「おととい越えた山が、いまは花盛りになったな。あのときはまだつぼみか二分、三分咲きだったのに。」といった意味。これも単純な句のようで、その長い「振り返り」の仕草が印象に残る。芭蕉が「二年待たないと理解者は出ない」と言ったのも、単調のなかの気長さ、それは春の日の永さにも通じる、それがむずかしいと感じたからかもしれない。
虹なにかしきりにこぼす海の上 鷹羽狩行
「海上にかかった虹が、何かしきりに、さんさんと光りながらこぼす、微塵のようなもの。」と山本健吉氏は評している。「虹」は夏の季語。これは、明るく一息に読み下せる、むずかしくない句でありながら、どこまでも余韻を残す。
日盛りに蝶のふれ合う音すなり 松瀬青々
「夏の蝶を詠んだ傑作。「しづかさや岩にしみ入る蝉の声」に匹敵する。」と山本健吉氏の評。大変に褒めている。(芭蕉と比べているわけだから。)「心の耳」で聴く、二匹の羽の擦れ合う音。
【書誌情報】『俳句鑑賞歳時記』、山本健吉、角川ソフィア文庫、2000
2014年4月12日土曜日
アナと雪の女王 Let it Go 歌詞・和訳
*歌われる歌詞としてではなく、書かれた詩として翻訳しました。
*Youtubeの動画を観ながら訳しました。場面ごとの情景、エルサの仕草、表情、歌い方などに合わせて訳し方を変えています。
山に真っ白な雪のきらめくこの夜、
足跡ひとつ見えない。
孤立した王国で、女王様はわたしみたい。
風が吠えている、わたしのなかで渦巻く嵐のように。
もう耐えられない、がんばってきたことを神様は知っている。
「誰も入れないで、誰にも見せないで。
いつもよい子でいなくちゃならない。
隠して、感じないで、誰にも知られないで。」
いいわ、もうみんな知っているのだから。
これでいいの、これでいいの。
ずっとがまんしてなんかいられない。
なるようになればいいわ。
くるっと回って、後ろでドアを閉めましょう。
みんながどう言うかなんて気にしない。
嵐なら吹きまくらせて。
寒さはわたしに指ひとつ触れられないのだから。
ちょっと離れるだけで、なんでも小さく見えるのも可笑しくて。
わたしを支配していた恐怖もここまでは追って来られない。
いまは、なにができるのかを試すとき。
どこまでゆけるのか、限界の向こう側まで。
ここには正しいもまちがいもルールもない。
わたしは自由!
さあ、ゆこう。さあ、ゆこう。
ただ風と空といっしょにいる。
なるがままになればいいの。
誰かの前で泣くこともない。
わたしはここに立っている、これからもそうでしょう。
嵐なら吹きまくらせましょう。
わたしの力は大気を突き抜けて、大地のなかへなだれ込む。
わたしの魂は、氷のフラクタルを螺旋状に張り巡らせて
わたしの思いを氷の爆発とともに結晶させる。
ぜったいに戻りたくない、過去は過去のなか。
どこまでも、どこまでも。
夜明けの太陽のように昇ってゆこう。
これでいいの、これでいいの。
完璧な子供はもういない。
わたしは自分の足で立っている、陽の光に向かって。
嵐なら吹きまくればいいわ。
寒さは指ひとつわたしに触れられないのだもの。
訳:木村洋平
* 今回の翻訳にあたって神奈川・東京で英語教師をしている、みかりさん(Twitter:@micaristyle / blog:ことのはノート)から貴重な助言、ご指摘をいただきました。ここにお礼を申し上げます。
*Youtubeの動画を観ながら訳しました。場面ごとの情景、エルサの仕草、表情、歌い方などに合わせて訳し方を変えています。
山に真っ白な雪のきらめくこの夜、
足跡ひとつ見えない。
孤立した王国で、女王様はわたしみたい。
風が吠えている、わたしのなかで渦巻く嵐のように。
もう耐えられない、がんばってきたことを神様は知っている。
「誰も入れないで、誰にも見せないで。
いつもよい子でいなくちゃならない。
隠して、感じないで、誰にも知られないで。」
いいわ、もうみんな知っているのだから。
これでいいの、これでいいの。
ずっとがまんしてなんかいられない。
なるようになればいいわ。
くるっと回って、後ろでドアを閉めましょう。
みんながどう言うかなんて気にしない。
嵐なら吹きまくらせて。
寒さはわたしに指ひとつ触れられないのだから。
ちょっと離れるだけで、なんでも小さく見えるのも可笑しくて。
わたしを支配していた恐怖もここまでは追って来られない。
いまは、なにができるのかを試すとき。
どこまでゆけるのか、限界の向こう側まで。
ここには正しいもまちがいもルールもない。
わたしは自由!
さあ、ゆこう。さあ、ゆこう。
ただ風と空といっしょにいる。
なるがままになればいいの。
誰かの前で泣くこともない。
わたしはここに立っている、これからもそうでしょう。
嵐なら吹きまくらせましょう。
わたしの力は大気を突き抜けて、大地のなかへなだれ込む。
わたしの魂は、氷のフラクタルを螺旋状に張り巡らせて
わたしの思いを氷の爆発とともに結晶させる。
ぜったいに戻りたくない、過去は過去のなか。
どこまでも、どこまでも。
夜明けの太陽のように昇ってゆこう。
これでいいの、これでいいの。
完璧な子供はもういない。
わたしは自分の足で立っている、陽の光に向かって。
嵐なら吹きまくればいいわ。
寒さは指ひとつわたしに触れられないのだもの。
訳:木村洋平
* 今回の翻訳にあたって神奈川・東京で英語教師をしている、みかりさん(Twitter:@micaristyle / blog:ことのはノート)から貴重な助言、ご指摘をいただきました。ここにお礼を申し上げます。
2014年4月10日木曜日
雨と木曜日(2)
すずかけの実を割ったところ。 |
円山公園で、雪のなかに小さないがぐりに似たものを見つける。茶色いとげとげ(やわらかい)に覆われたまん丸の実。それはすずかけの木(プラタナス)の実だ。プラタナスはフランスの小説にも出て来る。僕は北海道に来て初めて見たけれど、大きな木で、背が高いだけでなくしなる枝を横にも広げる。その先にぶらさがっている小さな実。ぽとりと雪のなかへ落ちる。
***
札幌の円山(まるやま)には雰囲気のある喫茶店がたくさんある。それも、隠れ家風であったり、小道の先に佇んでいたりする。円山の珈琲は美味しい。ところで、僕は俳句をやるのだが、仲間には「俳号」をもっているひとがいる。「松尾芭蕉」や「与謝蕪村」のようにひなびた名前をつける。俳句のペンネームだ。あるとき、僕もつけようかと考えた。結局、いまも本名のままだけれど、「円山珈琲」なんてよかったかもしれない。
***
『おとぎ話の古書案内』という本に出会った。装丁がいい。ぱらぱらとめくると、絵のなかに穴が開いていて向こうのページの絵と重なっていたりする。素敵じゃないか、と思って文も読むとくわしくて読みやすい。19世紀の絵本の始まり(イギリスがとくに発祥の地のようだ。)から解き明かす。解説・監修の海野弘さんが博識な文章家のようだ。
【書誌情報】おとぎ話の古書案内、解説・監修 海野弘、パイインターナショナル、2012
2014年4月6日日曜日
自律神経失調についての覚え書き
僕はかれこれ10年間、「自律神経失調(症)」とおつきあいがあるのだけど、これについてまとまった文章を書いたことがなかった。
・個別の例としてでなく、一般的なことがらとして語りづらい。
・自分の病歴・症状を客観視しにくい。
という理由によるが、いまなら一区切りつくような気もして、かんたんに書いてみよう。いま、身の回りや自分が「自律神経失調」という言葉にかかわりあるよ、というひとにとって得るところのあるように。
◆千差万別の症状
自律神経失調の特徴は、症状が千差万別ということ。不眠や頭痛、胃腸の不具合から、「虚弱体質」(と、僕は言われている)まで。ひとによって、また同じひとでも時期によってばらつきがある。
そして、急いで注釈をつけた方がよいと思うが、「自律神経失調」は「正式な」病名ではない。一時期、あらゆる医学的によくわからない不調が自律神経失調症と名づけられたことから、「病名のゴミ箱」として廃止された。このあたりの事情は、アメリカ精神医学会の診断マニュアル(DSM)が日本でスタンダードになっていることによる。だから、逆に言えば、権威を無視するならば、依然として「自律神経失調」という病名を使うことは可能で、事実、「その方が実態には合っている」と言う精神科医もいる。
◆理解されにくい症状
一般的な説明はこのあたりで切り上げて、僕の実感から来る話にゆきたいが、とりわけ困るのは「理解されにくい」ということ、「なんと説明していいかわからない」ということだ。ひとつには、人によって症状が千差万別だから、だが、どうも似たような苦しみを抱えている知人の話を聞いていると、共通する状態もある。
それは、「身動きができない」というような状態だ。とにかく苦しい(息苦しい、からだ全体に重い不快感、過呼吸になるひともいる、etc.)。どこがどう、というのは体験していないひとに説明するのは難しいが、あえて例えれば「熱のないインフルエンザ」みたいなものか。だるさ、朦朧とする感じ、全身の重み、など。とにかく、「しんどい」という言葉が一番ぴったり来る。
この状態は、僕も何度も体験していて「神経衰弱」と言ったりもするのだけれど、やっぱり健康なひとには伝わらない。「神経がわななく(震える)感じ」と言っても、よくわからない。ともかく、一部の自律神経失調のひとは「しんどくて動けなく」なるものらしい。そのときには、まずはからだが「しんどい」のだが、連動して精神的にもまいってくる(落ち込んだり、悪い方へものごとを考えがちになる)ことも多い。
◆対処法:波のこと
さて、それでは「対処法」としてはどうすればよいのか? もろもろの症状を含め、実際に「しんどく」なってしまった場合には「ほとんどどうしようもない」というのが当たっているのだが、「波」について理解することが助けにはなる。
波とは。経済の好況・不況のような、体調の波のこと。そして、マクロと中期とミクロの波が経済に(たしか)あるように、体調の波も季節の変わり目からひと月程度、また、一日のなかにも(とくに調子の悪い日は)波がある。
それで、「波」をどうするかだが、「見守る」こと、これが大事。一週間くらい調子の良い日が続いたら、「このあと不調の日が来ても仕方ないな」と思う。それは来ても、1日、2日で「抜ける」(ひどい気分や体調が去る)だろう。自分の波が見えているかいないかによって、「安心感」の面で大きな差が出てくる。たとえば、二日間ひどい状態がやってきても、「いままでの流れから見て、週明けには大丈夫になるだろう」と楽観できれば、精神面でも社会的な面でも楽に構えられる。
しかし、経験上、波をコントロールすることはほとんどできない。ふだんから「無理をしない」といっても、結局、わるくなるときはわるくなる、というのが実感だ。だから、(僕よりずっと年上の経験者もおっしゃっているが)あぶないと思ったら「家でじっとしている」しかない。嵐が去るまで待つようにやり過ごすしか方法はない。受動的で残念かもしれないが、必ずよい方の波は来るので、それを信じて待つ。「パニック障害(*)で死んだひとはいない」と言うけれど、自律神経失調のわるい状態が好転しないこともない、といまは僕も思っている。
* おおざっぱな説明だが、パニック障害とは、自律神経失調の一種で、苦手なシチュエーションに直面したとき、また、不調な波が来たときに、精神的に恐慌状態(パニック)に陥り、身体症状も引き起こす。
◆対処法:日々のこと。運動、食事、睡眠。
それでは、なにもできないのか、というとそんなことはなくて、わりあい元気なとき(よい波が来ているとき、また、まだわるくはなっていないとき)にできることがある。それは、健康に関する本を読んだり、医者に聞いたりすれば、誰もが言うように「運動、食事、睡眠」をきちんとすること。
それよりもう一歩進めて、マクロビオティック、ハーブ、ヨガ、太極拳、オーガニック、整体(鍼、ロルフィング) etc. 「健康によさそうなこと」はいろいろあるし、程度の差はあれ、僕もあれこれ試してきたが、これらは人それぞれに相性もあり、タイミングもあるので、一概には勧められない。お金もかかる。こういうものを自分の生活に採り入れるのもよいが、まずは「運動、食事、睡眠」からだと思う。
この三つについて細かくは書かないが、「運動」はウォーキング程度でとりあえずは十分。決まった時間にジョギングとか、ましてスポーツをやろう、としなくても、それがきちんとできるからだなら困っていないよ……という話。ラジオ体操ほか、いろんな体操もよいと思う。「無理のない範囲で」が合言葉。
「食事」と「睡眠」は、三食、栄養バランスのよいものを、間食は控えめに、夜は10時頃には寝て、朝はなるべく同じ時間に早起きする。「運動、食事、睡眠」のどれも、体調によっては難しい場合もある(例:不眠のケース)。
それで、こういった対処法によって体調が改善するのにかかる時間だが、僕は試行錯誤を含めて10年、闘病して最後の2年くらいでやっとなにかを掴んで、ほんの少しよくなった、という感じ。20代初めに発症して、50代半ばになるまで「つきあい」続けて、根治はできない、というひともいる。たぶん、僕も完治・根治はないだろう、引きずりながら、社会のうちに道を見つけるしかない、と思っているが、それでもいまより「よくなる」ことはあると希望をもっているので、10年でも20年でも「つきあい」続けよう、と考えている。
◆楽観について。
きりがよいところで、文章を終わってもよさそうだが、もう少し希望のあることを書きたいし、いま自律神経失調に苦しむひとにはそれが必要だと思うので、もうひと言。
これは、僕が「先輩」から教わったことなのだが、「楽観的でいること」の大切さがある。自律神経失調の場合、「病の終わりが見えない」ケースも多いのはさきに書いた通り。ただでさえ10年、20年、となると「そんなに長い間これで苦しむなら、人生投げ出したくなる」こともあると思う、とくにからだの不調から「落ち込み」が来ると、鬱病ではないのだが、抑鬱的な気分になることはある。
こんな風に、自律神経失調のひとは、「人生全般」の長い見通しと、「わるい波」が来たときの短い気分のふたつで、落ち込みがちだ。そのどちらも「楽観」しよう、というのがここで言いたいこと。そうやって、楽観的に構える方が楽だ、という気分がいまは僕もわかるようになってきて、アドバイスをくれた先達に感謝している。
・個別の例としてでなく、一般的なことがらとして語りづらい。
・自分の病歴・症状を客観視しにくい。
という理由によるが、いまなら一区切りつくような気もして、かんたんに書いてみよう。いま、身の回りや自分が「自律神経失調」という言葉にかかわりあるよ、というひとにとって得るところのあるように。
◆千差万別の症状
自律神経失調の特徴は、症状が千差万別ということ。不眠や頭痛、胃腸の不具合から、「虚弱体質」(と、僕は言われている)まで。ひとによって、また同じひとでも時期によってばらつきがある。
そして、急いで注釈をつけた方がよいと思うが、「自律神経失調」は「正式な」病名ではない。一時期、あらゆる医学的によくわからない不調が自律神経失調症と名づけられたことから、「病名のゴミ箱」として廃止された。このあたりの事情は、アメリカ精神医学会の診断マニュアル(DSM)が日本でスタンダードになっていることによる。だから、逆に言えば、権威を無視するならば、依然として「自律神経失調」という病名を使うことは可能で、事実、「その方が実態には合っている」と言う精神科医もいる。
◆理解されにくい症状
一般的な説明はこのあたりで切り上げて、僕の実感から来る話にゆきたいが、とりわけ困るのは「理解されにくい」ということ、「なんと説明していいかわからない」ということだ。ひとつには、人によって症状が千差万別だから、だが、どうも似たような苦しみを抱えている知人の話を聞いていると、共通する状態もある。
それは、「身動きができない」というような状態だ。とにかく苦しい(息苦しい、からだ全体に重い不快感、過呼吸になるひともいる、etc.)。どこがどう、というのは体験していないひとに説明するのは難しいが、あえて例えれば「熱のないインフルエンザ」みたいなものか。だるさ、朦朧とする感じ、全身の重み、など。とにかく、「しんどい」という言葉が一番ぴったり来る。
この状態は、僕も何度も体験していて「神経衰弱」と言ったりもするのだけれど、やっぱり健康なひとには伝わらない。「神経がわななく(震える)感じ」と言っても、よくわからない。ともかく、一部の自律神経失調のひとは「しんどくて動けなく」なるものらしい。そのときには、まずはからだが「しんどい」のだが、連動して精神的にもまいってくる(落ち込んだり、悪い方へものごとを考えがちになる)ことも多い。
◆対処法:波のこと
さて、それでは「対処法」としてはどうすればよいのか? もろもろの症状を含め、実際に「しんどく」なってしまった場合には「ほとんどどうしようもない」というのが当たっているのだが、「波」について理解することが助けにはなる。
波とは。経済の好況・不況のような、体調の波のこと。そして、マクロと中期とミクロの波が経済に(たしか)あるように、体調の波も季節の変わり目からひと月程度、また、一日のなかにも(とくに調子の悪い日は)波がある。
それで、「波」をどうするかだが、「見守る」こと、これが大事。一週間くらい調子の良い日が続いたら、「このあと不調の日が来ても仕方ないな」と思う。それは来ても、1日、2日で「抜ける」(ひどい気分や体調が去る)だろう。自分の波が見えているかいないかによって、「安心感」の面で大きな差が出てくる。たとえば、二日間ひどい状態がやってきても、「いままでの流れから見て、週明けには大丈夫になるだろう」と楽観できれば、精神面でも社会的な面でも楽に構えられる。
しかし、経験上、波をコントロールすることはほとんどできない。ふだんから「無理をしない」といっても、結局、わるくなるときはわるくなる、というのが実感だ。だから、(僕よりずっと年上の経験者もおっしゃっているが)あぶないと思ったら「家でじっとしている」しかない。嵐が去るまで待つようにやり過ごすしか方法はない。受動的で残念かもしれないが、必ずよい方の波は来るので、それを信じて待つ。「パニック障害(*)で死んだひとはいない」と言うけれど、自律神経失調のわるい状態が好転しないこともない、といまは僕も思っている。
* おおざっぱな説明だが、パニック障害とは、自律神経失調の一種で、苦手なシチュエーションに直面したとき、また、不調な波が来たときに、精神的に恐慌状態(パニック)に陥り、身体症状も引き起こす。
◆対処法:日々のこと。運動、食事、睡眠。
それでは、なにもできないのか、というとそんなことはなくて、わりあい元気なとき(よい波が来ているとき、また、まだわるくはなっていないとき)にできることがある。それは、健康に関する本を読んだり、医者に聞いたりすれば、誰もが言うように「運動、食事、睡眠」をきちんとすること。
それよりもう一歩進めて、マクロビオティック、ハーブ、ヨガ、太極拳、オーガニック、整体(鍼、ロルフィング) etc. 「健康によさそうなこと」はいろいろあるし、程度の差はあれ、僕もあれこれ試してきたが、これらは人それぞれに相性もあり、タイミングもあるので、一概には勧められない。お金もかかる。こういうものを自分の生活に採り入れるのもよいが、まずは「運動、食事、睡眠」からだと思う。
この三つについて細かくは書かないが、「運動」はウォーキング程度でとりあえずは十分。決まった時間にジョギングとか、ましてスポーツをやろう、としなくても、それがきちんとできるからだなら困っていないよ……という話。ラジオ体操ほか、いろんな体操もよいと思う。「無理のない範囲で」が合言葉。
「食事」と「睡眠」は、三食、栄養バランスのよいものを、間食は控えめに、夜は10時頃には寝て、朝はなるべく同じ時間に早起きする。「運動、食事、睡眠」のどれも、体調によっては難しい場合もある(例:不眠のケース)。
それで、こういった対処法によって体調が改善するのにかかる時間だが、僕は試行錯誤を含めて10年、闘病して最後の2年くらいでやっとなにかを掴んで、ほんの少しよくなった、という感じ。20代初めに発症して、50代半ばになるまで「つきあい」続けて、根治はできない、というひともいる。たぶん、僕も完治・根治はないだろう、引きずりながら、社会のうちに道を見つけるしかない、と思っているが、それでもいまより「よくなる」ことはあると希望をもっているので、10年でも20年でも「つきあい」続けよう、と考えている。
◆楽観について。
きりがよいところで、文章を終わってもよさそうだが、もう少し希望のあることを書きたいし、いま自律神経失調に苦しむひとにはそれが必要だと思うので、もうひと言。
これは、僕が「先輩」から教わったことなのだが、「楽観的でいること」の大切さがある。自律神経失調の場合、「病の終わりが見えない」ケースも多いのはさきに書いた通り。ただでさえ10年、20年、となると「そんなに長い間これで苦しむなら、人生投げ出したくなる」こともあると思う、とくにからだの不調から「落ち込み」が来ると、鬱病ではないのだが、抑鬱的な気分になることはある。
こんな風に、自律神経失調のひとは、「人生全般」の長い見通しと、「わるい波」が来たときの短い気分のふたつで、落ち込みがちだ。そのどちらも「楽観」しよう、というのがここで言いたいこと。そうやって、楽観的に構える方が楽だ、という気分がいまは僕もわかるようになってきて、アドバイスをくれた先達に感謝している。
2014年4月3日木曜日
雨と木曜日(1)
ある日、「雨と木曜日」という連載を始めようと思った。それはエッセイで、ふと思いついたタイトルなのだけど、日々の些細なことをおもしろく感じるところから書き出すものだ。小さなわくわくやほっとする発見、どうでもいいこだわり、目に光がともるようなことがら、そんなものを題材に読みやすい文章を書いてみよう——。
村治佳織の「ポートレート」をまた聴いた。有名な曲をカバーしたアルバムで、「戦場のメリークリスマス」から始まる。クラシック・ギターの音色で軽い音楽を聴きたくなるとこれをかける。最後の一曲はビートルズの「イン・マイ・ライフ」なのだが、僕は原曲の歌詞が好きで、レノンがヨーコに捧げた歌なのだろう、人生を振り返り(彼は30にもなっていない!)、だけどあなたを「イン・マイ・ライフ」で一番愛していると歌うところが、森林浴のような気持ちにさせる。
さて、円山公園のそばに「森彦」という札幌では有名なカフェがある。みごとな古民家カフェで、こだわり抜かれた内装に驚いてしまう。特注の道具を使ったネルドリップは、ぐっとくる赤ワインのような濃厚な珈琲だった。(ちなみに、少しカフェインに酔ったので黒ワインか。)ボサノヴァ風のBGMの合間に、ふっとバッハの無伴奏チェロ組曲が、それも管楽器で演奏されたものが流れてうれしくなった。ネジのついた時計がチクタクと鳴っていた。
***
村治佳織の「ポートレート」をまた聴いた。有名な曲をカバーしたアルバムで、「戦場のメリークリスマス」から始まる。クラシック・ギターの音色で軽い音楽を聴きたくなるとこれをかける。最後の一曲はビートルズの「イン・マイ・ライフ」なのだが、僕は原曲の歌詞が好きで、レノンがヨーコに捧げた歌なのだろう、人生を振り返り(彼は30にもなっていない!)、だけどあなたを「イン・マイ・ライフ」で一番愛していると歌うところが、森林浴のような気持ちにさせる。
***
さて、円山公園のそばに「森彦」という札幌では有名なカフェがある。みごとな古民家カフェで、こだわり抜かれた内装に驚いてしまう。特注の道具を使ったネルドリップは、ぐっとくる赤ワインのような濃厚な珈琲だった。(ちなみに、少しカフェインに酔ったので黒ワインか。)ボサノヴァ風のBGMの合間に、ふっとバッハの無伴奏チェロ組曲が、それも管楽器で演奏されたものが流れてうれしくなった。ネジのついた時計がチクタクと鳴っていた。
【ご案内】本のカフェ第三回@札幌(カフェ・エスキス)
本のカフェ第三回……4月17日(木)、18:30~21:30。札幌円山のカフェ・エスキス(Cafe Esquisse)で、気軽に本を紹介し、おしゃべりする集まり。
「本のカフェ」概要
「本のカフェ」概要
前半は、3,4人の方が一冊ずつ、本の紹介をします。ひとり15分~20分ほど。オブザーバー(紹介者でないひと)は途中で質問ができます。後半は、フリータイム。紹介された本を題材に自由におしゃべりをします。
参加費は、300円+ワンドリンク。
人数は、7名。(うち、紹介者は3,4人)
参加を希望される方は、「紹介者」か「オブザーバー」かを選んで、主催者までご連絡ください。その際、紹介者の方は、紹介する本を教えていただけると幸いです。
本の紹介者はできれば現物を一冊お持ちください。オブザーバー(紹介者でないひと)はなにもいりません! 課題図書のあるような「読書会」「勉強会」ではありません。プレゼンではないので、パワポもレジュメもいりません。また、紹介される本のほかにも好きな本を持ちこむのは自由です。
本の紹介は気楽なもので、あらすじ、思い入れ、感想、なんでも結構です。ジャンルは問わず。古典からライトノベルまで。雑誌、ムック本などもOKです。人前でしゃべることに慣れていないひとも、「読書家と言えるほどではないよ。」という方も歓迎です。気軽にお越しください。
今回の会場、カフェ・エスキスさんは純喫茶の雰囲気が漂う素敵なお店です。(http://cafe-esquisse.net/)カフェ全体がギャラリーになっており、いつも個性豊かな地元の画家、写真家、彫刻家の方による展示がされています。
当日の注意点:カフェ・エスキスさんは、ホットサンド等の軽食はありますが、ディナーはとれません。開催の時間帯がちょうど夕食時に重なってしまいますが、事前か事後にお食事を済ませていただけると幸いです。軽食もいちどきには提供できないかもしれませんので、軽食をご希望の方はその旨、参加のご連絡にひと言添えていただけると助かります。
ちなみに、第二回@札幌の記録はこちら(http://idea-writer.blogspot.jp/2014/01/blog-post_27.html)です。
それでは、よろしくお願いいたします。本でもひとでも、未知の領域をちらっと垣間見るような、楽しい時間にしましょう♪ 質問も含め、どうぞお気軽にご連絡ください。
木村洋平
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