(上)に続き、高浜虚子の俳句から好きなものをご紹介。『虚子に学ぶ俳句365日』の解説に依りながら、ひと言ずつ。
ふるさとの月の港をよぎるのみ
この句を作る数日前に故郷の松山のそばを通過している虚子。「ごく近くに見えていて、手の届かない故郷を詠う思いも、たいへん深い」。民謡の一節のようなうるわしさと静けさがある。
主留守色鳥遊びやがて去る
「色鳥」は「秋の小鳥の総称」。「この句は三つの場面から構成されています」。五・七・五がそれぞれ一場面を描き出す。虚子にはこのような「物語風の句」が見られ、詰め込みすぎもなく、秋風のように流れる様がみごと。
顔抱いて犬が寝てをり菊の宿
「ホッとするかわいらしい句です。」「犬が丸まって、前足に顔をうずめて寝ている様子を「顔を抱いている」と捉えました」。折しもそこは菊のきれいな宿。「黄色い菊の明るさが眠る犬を包み、安らかな風景です」。
丘二つ霧やや晴れてなだらかに
これも物語風の句。「丘二つ」を静止した像で置き、そこに霧がかかって、ついでやや晴れてきて、と時間の流れを生み出す。「なだらかに」とあとへ続くような終わり方であるのが、時の流れのゆるやかさをも表す。
何の木のもとともあらず栗拾ふ
芭蕉に「何の木の花とは知らずにほひかな」とあるのを意識したかもしれない、と解説。このような「茫漠とした調子」は虚子の大変、得意とするところ。そうやって始まるからこそ、下五では栗の姿が目に浮かぶ。
彼一語我一語秋深みかも
「彼がひとこと何かぽつりと言った。私もぽつりと答えた」。あとは沈黙、という光景。和歌でよく使われる「かも」という詠嘆がしっくり来て、一句を締めている。「かな」では、どこか落ち着かないか。
白雲と冬木と終(つひ)にかかわらず
「天上の白雲と、地上の冬木」が、「何の接点もなくすれちがう二つの存在」として描き出される。そのきっぱりした詠みぶりが、かえって白雲と冬木の「取り合わせ」に妙味をもたらす。どこか端正な句。
旗のごとなびく冬日をふと見たり
冬日が「風になびいているかのように見えたという幻想には、現実以上のリアリティ」がある、との評。冬空はどこか白く、澄みながらも正視していられないかのような気持ちを起こす。それが、「ふと」幻想を呼ぶ。
その辺を一廻りしてただ寒し
「そのへんをひとまわり」と、「一筆書きのようにさらり」と描き出す。「季題だけを生かすという句です」。「ただ」寒し、とひらがな二文字もよく活きている。これほど中身がなく味わいを醸す句は虚子のほかに詠めるひとがいない、と思う。
伊太利の太陽の唄日向ぼこ
「オー・ソレ・ミオ」を「ラジオかレコード」で聞いたのだろう、と。冒頭は「イタリー」を漢字で置きつつも、平易な「太陽の唄」という言葉をもってきて、最後は「ぼっこ」と促音にせず、「ひなたぼこ」と無造作に詠み切る。平和な句。
こうして、選び取りながら読んでみると、虚子の恬淡とした調子、情緒の色合いが明快でありながら、濃密さより空白を大事にするような句柄、言葉の隙のなさ、といったものに気がつく。
【書誌情報】『虚子に学ぶ俳句365日』、『週刊俳句』編、草思社、2011