2014年7月17日木曜日

よそ者と人文主義者ーー中世ヨーロッパとルネサンスの世界観(後編)

前編からの続き。

<ルネサンスの世界観>
 これに対して、後期中世である「ルネサンス」(おおよそ14〜16世紀)では、(『珈琲と吟遊詩人』の考察によれば)世界観ががらりと変わる。ルネサンスでは、派手な仕掛けで演劇や舞踏を催す「宮廷」が、「閉ざされた理想郷」となる。そこでは、ミクロコスモスとマクロコスモスのように、「内」と「外」の水平的な(地理的な)観点からは、なにも交通しない。しかし、垂直的な(時間的な)観点から言えば、古代ギリシャ・ローマという古の知を「現代」としての14〜16世紀に蘇らせている点で、「宮廷」は開かれている。ルネサンスは、「文芸復興」の訳語の通り、古代の知・芸術・思想を現代にもたらす点で、閉ざされた「同時代性」を「古(いにしえ)」に開くのである。
 
 こうしたルネサンスの世界観では、「共同体を開く者」は「人文主義者」である。彼らは、同時代の知に満足せず、その風潮にも同調せず、古代の探究をする。ルネサンスにおいて「現代」(14〜16世紀)と「古代」は、一旦、断絶している(古代の遺産があまり顧みられず、中世キリスト教文化が支配的であった長い時期があいだにある)けれども、歴史の探究により、書物や彫刻をきっかけにして、再び古の知を見出すことができる。この「学問」(20〜21世紀のアカデミズムとはちがって、もっとゆるやかな広がりをもつ、おおらかだが厳密ではない知の営み)を担う者が「人文主義者」(ユマニスト)であった。
 
<よそ者と人文主義者>
 こうして、ふたつの世界観と、それぞれにおいて「共同体を外に開く者」が見出される。ひとつは、中世ヨーロッパ的な「ミクロコスモス」と「マクロコスモス」の世界観であり、ここでは水平的に(地理的に)閉ざされた共同体を「よそ者」が外へ開く。もうひとつは、ルネサンス的な「現代」と「古代」の世界観であり、そこでは垂直的に(時間的に)閉ざされた共同体を「人文主義者」が古の知へと開く。
 
 これらふたつの役割は、21世紀の現代においても、誰かが担っているだろう。たとえば、学者や、在野の知識人は「人文主義者」たりえる。他方、「よそ者」の役割は、いろいろなひとびとに拡散して、半ば無自覚に担われているのかもしれない。数限りない共同体が、今日も「結んで開いて」いる。


あとがき
 折口信夫をよく知らないが、この文章で描いた「よそ者」とは、彼の概念で言う「まれびと」に似ているのかもしれない。