2015年1月29日木曜日

感謝




長い病気(自律神経失調)と向き合う人生に入って、もう10年以上になる。厳しい日々だった、と、ひとことで言えばそれに尽きる。そんななかで、いまも途上にすぎないが、感謝のことばを書きたい、と思いつく。

いつも浮かぶのは友人たちだ。ぼくはあるときまで(25,6歳頃だった)ひとりで哲学に没頭してきた。友達がいないわけではなかったが、それをありがたいこととも、とくべつなこととも思わなかった。だが、ふとした転機から、友人を大切なもの、と思うようになってしばらく経つ。そのあいだに知り合った、また以前から交友を続けてくれた友人たちには、いまとても感謝している。

旧友と呼べる仲間もいるし、それなりの期間をだいじに過ごした友人もいれば、ここ1,2年で親しくなっていっしょにいろいろな体験を楽しんだひともいる。年長者もいらっしゃるし、「友達」というよりお世話になった方もいる。本のカフェ(という読書会)で1,2回会っただけの仲間も大切な存在と思える。

もっとも、一番の感謝はやはり家族に、と思う。家族は、つきあいたいときにつきあう気楽な交友関係とはちがうものだから、ひとことでまとめきれない時間をともにすることになる。一番の「ありがとう」はそんな家族のものだ。じゃあ、二番目なのか、と言われるとことばに困るが、それでもここに書きたいのは、友達がいることがどれだけ貴重か、ということ。

ぼくは、あるとき、ひとりで札幌に移住したから、自律神経の発作や不調に苦しむとき、そばにひとがいてくれることは少ない。食事も満足に作れない、歩くにも支えがいる、心細さもある、そういうときもひとりで自分の面倒をみた。けれども、それでも薄い光のなかに溶け入って、いまにも見えなくなりそうな思い出たちが、ひとつひとつを思い出さなくても、ぼくの周りを幾重にも取り囲んで包み込んでいる。

いつ、どの日にちだったかも覚えていないような、淡い歳月のなかで、たまに珈琲を飲んだり、飲み会の席でいっしょになった、なにを話したかも覚えていないような、そういう友人たちとの数え切れない、なにも固定されて写真立てのようには残さなかった日々の記憶が、いまの支えとなっている。これを書く源になっている。これのほかのあらゆるぼくの文章も。