2016年3月18日金曜日

【本の紹介】アウステルリッツ、ゼーバルト


20世紀の後半を生きたドイツ語作家ゼーバルトは、イギリスに移住してよその地で母語で書いた。『アウステルリッツ』は、主人公の名前。「私」はベルギーのアントワープで、アウステルリッツと出会う。それから、数十年の時間をかけながら、いくたびも彼らは話し合う。とはいえ、「私」は話を聞く一方だ。


このように物語の構造はワンクッションを置くが、主な語りはすべてアウステルリッツであり、その語りはどこかプルースト的な、記憶を辿る長い旅路であり、かなたこなたへ行き来しながら、自然誌を披瀝し、建築史家として要塞について語り、いつも「とアウステルリッツは語った」の語句を挟み、その語句は訳者が省こうとしても省けない、と観念して挿入を続け、不均等なリズムを成す。


表題は『アウステルリッツかく語りき』であってもよかったのではないか、とさえ思う。半透明な膜の向こうにアウステルリッツがいるかのように、磨りガラス越しの会話のように、主人公は壁を隔てて言葉を紡ぎ続けるが、そのほの暗さはやはり大戦期のドイツと東欧、ホロコーストに由来している。ゼーバルトは、Austerlitz は Auschwitz(アウシュヴィッツ)を連想させる、とインタビューで答えたそうだ。


こうして記憶の物語はノスタルジーよりも「苦痛の痕跡」として、独身者アウステルリッツを旅へと強いる。遊歩者(フラヌール)とあだ名されたベンヤミンのように、どことなく憂鬱に徒歩を続ける。プラハ、ロンドン、パリを巡るアウステルリッツは戦争の残したものどもに取り憑かれ、いっときは精神病院に入院する。いずれにせよ、旅路の行く先よりも追憶のメロディーがゆるやかに始まり強度を高めて静かに沈んでゆく、その音楽の流れを目で追うことに文学の愉悦がある作品だ。モノクロームの写真が、ゼーバルトの撮ったものも含まれるのか、多数挿入されて物語を豊かにしている。ちょうどアルバムを繰るように、ページを眺めたい本に仕上がっている。


ひとつ面白いエピソードを蛇足ながら、紹介したい。「そのとき蛾の体温はほ乳類や海豚や全力で泳いでいるときの鮪と同じ温度、三十六度になっている。三十六度というのは、自然界でいちばん適切な温度だということがわかっているのだよ」(中略)「ひょっとしたら人類の不幸は、いつのころか体温がこの基準値からずれてしまって、しじゅう少し熱っぽい状態にあることと関係があるのではないだろうか」。

こんな考察も面白い。ちなみに、訳は素晴らしいと思う。

【書誌情報】
『アウステルリッツ』、W.G.ゼーバルト、鈴木仁子訳、白水社、2012