2017年9月7日木曜日

雨と木曜日(143)

2017.9.7.

下北沢の読書会へ

木曜日更新のエッセイ。
今回は、表紙に名前がない話 * 惑星ソラリス * フィリップ・フォレスト『さりながら』。




新刊『遊戯哲学博物誌』の表紙は、帯がかかっていると著者の名前が見えない。帯の下に隠れてしまっている!こういう装丁はめずらしい。僕はTwitterのフォロワーさんに指摘されるまで気づかなかった。改めて不思議に思い、デザイナーさんに尋ねてみると、装画(札幌の画家、井上まさじさんの抽象画)を活かすためには、名前を入れるスペースを削るしかなく、苦渋の選択だった、とのこと。


だが、僕はいまのデザインで気に入っているし、自分の名前をたいして重要だと思っていないので、満足している。これはこれで遊び心が感じられて、遊戯の本にぴったりだ、と思う。

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タルコフスキー監督の『惑星ソラリス』を観た。閉塞感が強く(宇宙船の中、過去へのこだわり、救いのなさなど)これは芸術をも束縛したソ連での体験がにじんでいるのかな、と考える。どの場面も長い。その「退屈さ」がまた閉塞感を高めながら、芸術的な浮遊感を生み出す。とはいえ、主人公のクリスはとてもいい味を出している。ぴったりの俳優。その持ち味が閉塞を打破し、人間性を蘇らせようとする。余談だが、近未来の風景として日本の首都高が映されるのは面白い。

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生成り色を活かした装丁

次回の本のカフェ(読書会:9月30日)で紹介される本、『さりながら』(フィリップ・フォレスト)が気になって先に読んでしまった。タイトルは小林一茶の句「露の世は露の世ながらさりながら」から取られている。3人の日本人の伝記を扱いながら、私小説的なエッセイを紡ぐ、と書けばややこしいが、読むと自然な散文だ。

なお、俳句について西洋人が書いた文章を読むといつも感じるのは、日本的な情緒、わびさびの幽玄が、西洋的な思考法ーータテ・ヨコですっぱり切り取り、ムズカシイ概念の曖昧さに深い意味を託す、そういう思考法に取って代わられてしまうこと。

ともあれ、全編をどう読むか、どこに注目すると面白いかは、本のカフェでの紹介を楽しみに待ちます。

『さりながら』、フィリップ・フォレスト、澤田直訳、白水社、2008