2018年3月22日木曜日

マルグリットから見た『椿姫』

光文社古典新訳シリーズで出た『椿姫』を読んだ。永田千奈さんの新訳。すぐれた物語に引き込まれるとともに、訳者があとがきで述べるような「もどかしくて苦しくなる」感覚も理解できる。この訳業の真価はなんだろう?と考えた。


訳者の永田千奈さんはあとがきで、あるひとから椿姫は「泣ける話」だと聞かされたが、それはアルマン(主人公・男)の目線なのではないか、「訳者である私はマルグリットに肩入れするあまり……」と書いていらっしゃる。

そう、この翻訳ではマルグリットの台詞がとびきりしっくり来る。気づけば、オーディオブックで聴いているかのように台詞を読んでいた。彼女の言葉が真に迫る。訳文の引き込まれ具合で言うと、マルグリットの台詞>地の文>男性陣の台詞といった印象がある(地の文もとてもよいです。念のため)。

そこで、ナイーブな感想で怒られるかもしれないが、訳者が女性だからこそ、それもやわらかく精密で折り目正しい訳文をこれまでにも練られてきた永田さんだからこそ、マルグリットがこんなにも活き活きとしゃべっているのではないか、と思う。おしとやかで愛情深く、ときに激情的でありながら、奥底には揺るがないものを秘めているマルグリットの有り様が浮かび上がる。。。

そうすると、本作全体がどう変わるのか?

単に台詞の巧拙を言うだけでは、作品全体からすればたいしたことはない。だが、この翻訳では、訳者の「肩入れ」するマルグリットに読み手が感情移入するよう促される。物語全体の語り手はアルマンであるにもかかわらず。そうすると、とくにアルマンとマルグリットが行き違いを起こしていく後半〜終盤、アルマンの視点を超えるほどに、マルグリットの視点が、読者にとって重さをもってくる。

ここに「マルグリットの視点から見た『椿姫』」という、いわば新しい物語が生まれる。

これまで、男性(著者デュマ)が男性(アルマン)の視点で書き、男性(訳者)の翻訳を通して読まれてきた本とは、べつの世界が、永田千奈さんの訳業によって開かれたのかもしれない?

永田さんがあとがきで述べる「もどかしくて苦しくなる」感覚は僕にも伝わった。もし、アルマンの視点で一貫して読んでいれば、悲劇のカタルシスが得られてすっきりしたかもしれない。けれども、僕にはマルグリットとともに苦しんで終わる哀しみが、読後にあった。

マルグリットになって物語世界に入り込んだかのような面白い読書体験ができた。