2018年5月11日金曜日

『遊戯哲学博物誌』の案内板 その7

その6からのつづき。


今回の「その7」で一旦、連載を終わりたいと思います。テーマは、『遊戯哲学博物誌』が目指したものはなにか?

その1その2で見たように、この本は「なにもかも遊び戯れている」という世界観を提示します。人間も、動物も、自然も、宇宙のガスや塵に至るまで「遊戯」している、と。

そういう見方は、たしかに新しいのですが、では単に新規性を目指したのでしょうか? ──そうではないのです。では、なんのために提示するのでしょう?

それは「なにもかも遊び戯れている」という終着点にたどり着くことで、「哲学をしなければならない」という激しい衝動から逃れることができるようになるためです。

少ないでしょうが、そういう「哲学への衝動」を覚えるひとたちがいます。彼ら彼女らは、「世界とはなにか」「倫理とはなにか」という問いを「ただ疑問に思う」だけでなく、それに答えられないと、居ても立ってもいられない気持ちになります。

なんとしてでもこれらの問いに答えを見出したいと願い、そのために思考し、哲学史を学び、必死の努力をします。得心の行く地点まで行かないと安心して生きられない。そういう「哲学に憑かれたひと」たちがいます。

この本は、そういうひとりによって、そういうひとたちのために書かれました。世界のすべてについて、ただ「なにもかも遊び戯れている」と眺めるひとは、そこで、哲学の問い(世界と倫理)に苦しむことをやめるでしょう。


そこで「問いの苦しみ」は消えます。たしかに「問う」ことはいまもたくさんあるのですが、それらの問いはすでに哲学への衝迫をもたらすものではなく、言ってみれば「これはふしぎだ」という静かなつぶやきなのです。

そうして、ひとを哲学に引き込む「問い」は消えても、「ふしぎ」は残ります。いまは平静な心持ちで、安心して世界を眺めながら、世界に満ちるふしぎを眺めることができます。いつまでも。

こういう地点を目指して、『遊戯哲学博物誌』は書かれました。

案内板をここまでお読みいただき、ありがとうございました。




〜・〜・〜・〜・〜

「案内板」のブログ記事一覧。
その1 その2 その3 その4 その5 その6