2019年2月11日月曜日

国家とはなにか?──ホッブズ、シリア、ガルシア=マルケス

今日は、哲学カフェ風に話してみよう。
哲学カフェで出されるお題のように「国家とはなにか?」について考えてみたい。



国家について語ろうとすれば、いろんな切り口がある。軍事力を独占するもの、富の再分配、福祉国家と夜警国家……等々。

しかし、ここでは、ホッブズの『リヴァイアサン』をきっかけにジグザグに行こう。

ホッブズは社会契約によって臣民がみな、多くの権利を「主権者」(=政府や王)に渡す代わりに安全を保証される、というモデルを打ち立てた。近代の国家理論である。

ホッブズに特徴的なのは「主権者」(=政府や王)の権限がとても強いことだ。

なぜか? それはホッブズがイングランド内戦を経験したからのようだ。一国家のなかで紛争をするのは最悪の状態だった。どうしても内戦だけは防ぎたい。そのためには、ひとりのトップが最強の権力をもてばよい。──というわけだ。

ホッブズに同意すればこう言える。「国家が治まっている」とは「内戦がないこと」であり、「政府」とは「内戦を阻止するための組織」である、と。

あちこちの議論を飛ばして、しかも一面的に見れば、そんな風にも言える。

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現代に照らしてもこの知恵は活きている。シリアやイエメンの紛争は国土も生活もめちゃくちゃにしてしまった。

なるほど。じゃあ、内戦さえ防げばよいのだろうか?
内戦のない国家は「よい国家」なのか?

──残念ながら、そうでもない。

『ガルシア=マルケス「東欧」を行く』という面白い本を読んだ。これは60年代の東欧とソ連の旅行記であり、ジャーナリズム精神と文学に満ちた冒険の書だ。


読んでいると、どう見ても旧東ドイツ、チェコ、ハンガリー、ポーランド、ソ連……といった社会主義国家は幸せではない。

「内戦」こそないものの、民衆はあまりに強力すぎる「主権者」(=政府)のために抑圧されたり、不条理を強いられたりしている。

……そういうわけで、話はふりだしに戻ってしまうが、「国家」は内戦を防いでいれば、「よい国家」になるわけではなかった。

結論は出ないものの、こんな風に、ある程度単純化しながら、ひとつの線で思考することはおもしろく、その線が円を描いて出発点に戻るとしても、学びと発見がないだろうか?──あるといいなぁ、と思って哲学をする。