2019年11月27日水曜日

白洲次郎のこと──かんたんな伝記とエピソード

最近、そのひととなりと人生を学んで好きになった白洲次郎についてまとめました。



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白洲次郎は乱世に活きる野人だった。「昭和史の巨人」とも言われる男の人生を紹介したい。

白洲次郎は、1902年(明治35年)兵庫県芦屋の裕福な貿易商の家に生まれた。若くして英国に留学し、貴族の友人とベントレー、ブガッティを愛車にして乗り回す。ケンブリッジ大学を卒業した。英国での生活は9年に渡ったが、父親の会社の倒産を機に帰国する。

そこで出会い、結婚した相手がのちの白洲正子である。正子の生涯もまた魅力的だ。ふたりはともに芯の通った自我の強い人物だったが、いまでも理想的な夫婦の一例とされる。

商社に勤めた次郎は、一年の大半を海外で暮らし、のちの首相である吉田茂とも親交を結んだ。こう書くとずいぶん優雅な人物にも見えようが、次郎は英国風の紳士であるとともに正子からは「野人」と評されるような無頼な一面を常にもっていた。

戦争が長引く1940年、次郎は友人に「米国が参戦して日本は負ける。東京は焼け野原になる」と告げて、郊外の鶴川村(現在の町田市)に夫婦で引っ越した。これがいまも残る「武相荘」(ぶあいそう)である。冗談を込めてのネーミングだった。

鶴川村では百姓となり、ボロ服を着て農民と歓談しながら「食糧増産」に励んだ。「いずれ食糧難になるから」と。友人たちはこうした予想と行動を笑ったが、次郎に先見の明があったことがのちにわかる。また、次郎はいよいよ空襲で焼け出された友人を自宅に呼び寄せ、住まわせた。

戦後、日本が占領されると次郎は吉田茂に呼び出され、GHQとの交渉役に当たる。その際、GHQからは「従順ならざる唯一の日本人」と評された。この頃、憲法を「押し付け」ようとしたホイットニー将軍との間に面白いエピソードが残っている。あるとき、将軍が「白洲さんの英語は大変立派な英語ですね」と褒めると「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と切り返したという。

政治家にはならないと決めていた次郎は、「終戦連絡事務局」の仕事に区切りをつけて退任した。その後、東北電力の会長に就任する。運転手もつけずにランドローバーを乗り回し、ダム建造などの現場で労働者たちとおしゃべりした。80歳を過ぎるまで頑健に生き、ゴルフを楽しみ、「葬式無用 戒名不用」のたった二行の遺言を遺して逝った。

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白洲次郎は感情が昂ぶると、自然と英語を話したようだが、そうした際に「プリンシプル」という言葉をよく使った。日本には「原理原則(プリンシプル)」でものを考え、発言する習慣がない。次郎は仕事でも生活でも趣味でも、いくつかの「プリンシプル」を貫いた。真の国際人であった。

最後に、白洲次郎の人柄を伝える若き友人の言葉がある。

「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。白洲が晩年に至るまで、仲良くつき合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。……(略)」

そういう友人を大切にしたのは、もちろん次郎自身がそういう性質を持ち合わせた人間だったからだろう。

参考文献:『風の男 白洲次郎』青柳恵介、新潮文庫、2000年