2020年2月10日月曜日

【エシカル/SDGs】取材記事:ぼくら市民が学問をして幸福に生きる

「学問は学者がやっていればいい、と思われてはいけない」──



Uさんは修士号を取得。その後、フリーターをしつつ就職を目指すが、うつ病を発症し、現在は一人暮らしで療養中。近所にある出身大学にしばしば通っている(ただし「学生」身分ではない)。関心は、大学論(大学のあり方)、人文学と実学について。





──いま、つらいことはなんですか。


一日ひとつ、掃除や片付け、長距離を歩くなどの目標を立てるが続かない。いまの体力、精神力ではできない。疲れてしまう。コンビニに行くだけでも横になってしまうときもある。


なにより、本を読めないのはつらい。集中力が続かない。横になると、ゲーム実況動画を流したり、ショパンやロドリーゴを聴いたりします。ロドリーゴは盲目でしたね。




──出身大学に通い、学生と関わっていてなにか感じることがありますか。


自分にも居場所があり、かかわるひとがいることは助かる。ただ一方で、親しい学生が卒業していく、彼らが社会人になっていくのを見送ると「自分がこれから彼らと同じようにできるのか」と考えてしまう。不安を感じる。


自分が培った経験を社会に還元できないか、いつも考える。


──いま考えているテーマはありますか。


学生時代の学び(のあり方)、人文学の意義と実学、大学とはどういう場所か、ということを考えてきました。


たとえば、AIを活用した無人店舗が増えると、ひととひとの関わり方が変わっていくでしょう。そういう時代に、もともと孤立しやすいひとたち、精神疾患を抱えていたり、高齢であったり、そういうひとがどうひととの関わりを作り、保っていけるか。家にカメラを取り付けて孤独死しないか監視する、というのでは解決しない。




──「学生時代の学び」について、学生という身分のよさはなんでしょう。


サークル、学問、生活等について、相談したり、討論したりできること。あとは組織運営をするとか、行事の実行委員とか。そうですね、討論する相手が多くいるのはよいと思います。


私もゼミに出ていますが、学ぶことは多いですよ。学生という身分があるからこそ経験できることもある。図書館を使うのでも(学内のサービスを利用して)新聞や論文を検索できる。




──大学論、大学のあるべき姿、ということについてはどうですか。


市民が休日に研究や調べ物をするとして、大学が一番それに適した場所でしょう。市民にサービスが開かれた大学でならば、開かれた学問ができる、と言いますか。そういう地域を作れたら、そこにはよりよい大学の姿があるかもしれません。


社会を動かすのは、専門家だけでなく市民でしょう。私もゼミに出ていて思いますが、市民も学問を社会に還元できるといいですね。


ただし、これは研究者として在野で大成しよう、という話ではなく。たとえば南方熊楠のような知の巨人でなくてよいのです。そもそも市民の学問にはいろいろなタイプがあるでしょう。たとえ社会に還元しなくても、ただ生涯学習をする、というのでも意義はあるでしょうし。または、単に文学が好きで、いろいろ読むうちに発想の仕方が変わるのでもいいですね。


──いまの時代には、しかしそうした「学問」がなんの役に立つのか、という声もありますね。


ええ。漱石の高等遊民を描いた小説を読んでも、社会にすぐ役立つわけではないですね。実学重視の傾向は強い。


──Uさんの接する学生さんたちも、実学重視でしょうか。


学生は就職の有利不利には関心があります。ただ、人文学ばかりでなく、経済学を専攻していても(うちの大学では)有利にならない。就職ではMARCH(マーチ。偏差値が高めの大学)以上かどうかでみられるから、学部は問題ではない。




──Uさんが「市民」という点を重視するのはなぜですか。


私のように「市民」という立場でゼミに出ていると、「学問は学者がやっていればいい」と思われてはいけない、と感じます。原発であれ、水俣病などの公害問題であれ、当事者であり、大多数の側でもある市民が動かないと社会は変わらない、動かないです。もっとも「社会をよくするために全員が社会運動をする必要がある」と言いたいわけではないですが。


──ほかならぬ市民が学問をすることの意味をもっと伺えますか。


過去の事例や似た事例を学ぶことは学問を通してしかできません。


それから、話が変わるようですが、日本社会を考察した学者として阿部謹也や中根千枝、山本七平がいますね。あるとき、もう退任されたS先生と話していて、「阿部謹也は『世間』について論じているのに、阿部謹也自身は世間から関係ないみたいなところがありませんか」と言ったら、「まるで二階から見下ろしているかのようだ」と笑って答えてくれました。


──なるほど、日本社会を論じた代表的な学者たちが、市民の目線で学問していないわけですね。


そうです。他方で、私の好きな、きだみのる(文筆家、翻訳者。フランス留学の経験をもち、民俗学的な著作で有名になった)は村社会にほんとに入っていく。それで村八分にあう。『気違い部落周游紀行』は有名になった。


きだは阿部謹也らとは対照的だと思う。「一階」のひとです。ファーブル昆虫記を翻訳したりもしていますし、開高健とも仲が良かった。フランスではマルセル・モースに教わっている。モースの『贈与論』なんかド専門じゃないですか。


私のバックボーンはきだみのるです。




──それで、学問は市民とともにあってほしい、と考えるわけですね。


社会問題についてはとくに市民の立場は重要じゃないですか。新聞を読んでいても、学者や行政ではなく、被害にあった当事者、地域の市民がまさに「専門家」である、ということはよくあります。


──「専門家」というのは、学問における専門家に限定していませんか。


ええ、学問にはかぎりません。


──では、石牟礼道子さんのようなひとも含まれますか。


『苦海浄土』(石牟礼道子著。水俣病を扱った作品)ですね。文学には文学における共有のしやすさがある。必ずしも学問でなくてもいい。演劇や美術という方法だってある。


私が「専門家」と呼んでいるのは、経験の蓄積があり、近くでつぶさに見てきたひとであり、当事者であるようなひとです。それらを総合することができて、発信力をもち、社会に還元できれば、それは「専門家」です。


市民は立場や経験、障害、(公害の)被害などについて多様性がある。この多様性が大事です。学者任せ、行政任せではなく。いろんな立場やバックグラウンドが活かされるのがよいと思います。




──Uさんの「学問」に対する考え方は常に現実と結びついていますね。


学生にありがちなのは、本の一節を引用したりしても、それが現実の問題に適用できていないということ。たとえば、「ドゥルーズが欲望する機械という言葉を使う」と言えても、それをどう使うか、当てはめるかということはできていない。それでは知識にもなっていない。これは他人を見て批判したくなるというより、私自身がかつてそういう誤りをしてきましたし、いまも難しいと感じるということです。


私の卒論のテーマは「ひとにものをもらったら、なぜ返さなければならないのか」でした。私は「互酬関係」(ものを贈られたら等しい価値のあるものを返す、という社会的な関係。阿部謹也は著書『「世間」とは何か』のなかで互酬関係についても分析している)が嫌いなので、学生にプレゼントするときも「贈られても返すんじゃねーぞ」と言っている。自分が学問して得たことを人生に活かして幸せになろうとしているのでしょう。

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Uさんの学問は、頭の中に蓄える学問ではなく、それを通して社会に関わり、またそれとともに自分の人生を生きるための学問であった。だからこそ、学問を通じて幸福になることもできるのだろう。