2020年6月2日火曜日

21世紀は批評精神を糧に──科学の詩へ


幸福

本当の幸福とはなにか?

「じぶんが充足された未来」を思い描く。
──安定した収入があり、家庭は平和で、仕事と余暇を満足して過ごしている。

あるいは、なんでもいい。

他方で、「じぶんを世界に向かって投げ出す」幸福がある。

世界という、果てしなく広く、未知で、恐ろしいものへ飛び込み、冒険し、「世界がこうあったらいい」を実現するために行動する。道半ばで倒れることに怖じない。

極端に言えば、これも幸福だ。──インドの古典『バガヴァッド・ギーター』において、アルジュナは戦争に行くのをためらう。しかし、ヴィシュヌ神はいわば「世界に向かって自分を投げ出せ」と激励する。アルジュナは決意を固める。

表面の世界

「じぶんの幸福」という観点に立つと、見えるのはものごとの表面になる。それはヴィシュヌ神のマーヤー(幻力)として見せられた世界とも言える。

ショーペンハウアーの言葉で言えば、「表象としての世界」だ。だが、その奥底には「意志としての世界」もあるはずだ。

「じぶんを世界に投げ出す」幸福観に立つ者は、その「幻の表面」を突き破り、世界の深奥を掴もうとしてもがく。

鋭い批評

こうした「かりそめ」と「本物」を対立させる19世紀までのヨーロッパ思想に対抗がなされる。

ニーチェならば「隠された世界など、ない。世界の背後はない」と断言するだろう。

批評精神のはじまり。それは二十世紀の幕を開ける。

「表面」と「深奥」なんて、ふたつの世界はない。世界は一元的だ。頭で考えた世界観を捨て、空虚な思考をやめよ、とニーチェ的な批評は言う。

また、ヴィトゲンシュタインならば、「ひとは語りえないことについて沈黙するしかない」と告げる。

──「本当の幸福」と「かりそめの幸福」、ふたつの世界、等々のテーマはそもそも言語の限界を超えている。それは倫理であり、倫理について言語は無力だ。

二十世紀で最もストイックな言語哲学は、そう断言して話をやめる。

これが二十世紀の生み出した、現実に直面する精神だ。それは言葉を削り、鍛え抜く。鋭利な硝子かダイアモンドのように磨き上げる。

そこにのみ、かろうじて文学が宿る。

科学の詩

このような「徹底した客観視と揺れる主観との往来」から生まれる、透徹した思考を「科学」と呼ぶこともできる。

19世紀は夢をみた。二十世紀は科学を唱える。

その相克から21世紀が生まれる。以前、書いた「ふたつの世紀の先へ」の記事に重なる。

21世紀は科学の詩を呼ぶ。

それはdreaming(夢みること)、オーストラリア・アボリジニの言葉でいう「ドリームタイム」を知っている、なおかつ見えないところで、科学を、あの批評精神を会得しているもの。

あくまで表現は詩だ。
そのなかに科学が封印される。

それは自在な遊戯となる。融通無碍で、変幻自在。そこに遊戯の詩を、書きつけよう。