2020年6月22日月曜日

【信頼】憲兵と詩人


信頼について、ずっと考えているなかで、こんな話を読んだ。

某詩人(故人)の話。敗戦の一週間後、市内で「白昼の惨劇」を目撃した。男が別の男を暴行している。見ぬ振りができず凝視しているうちに、暴行を加える男がかつて自分を取り調べた憲兵だったことに気付いた。痛めつけられているのは朝鮮人労働者だった。詩人は近づいて、昂奮している元憲兵の肩に、優しくそっと手をかけた。こちらを見た男は、詩人を認め、ああ、しばらく、といった。そして、憑きものが落ちたように、暴行をやめて、その場から去って行ったという。

ここには「信頼」の根が隠れているように思える。

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アルフォンソ・リンギスという哲学者がいる。世界中を旅する男だ。彼がたしか『信頼』(か、『何も共有していない者たちの共同体』)という本で述べていたエピソードを思い出した。

リンギスは南インドのどこかの村で風土病にかかった。2,3週間休んでみたがよくならない。その時、見知らぬ男がリンギスに声をかけ、「おれの舟に乗って医者に行くか」とたずねた。

その男を「信頼」したリンギスは舟に乗せてもらい、無事に医者にかかり、回復した。だが、あの時、まったく知らない男にどうして命を預けられたのか、そこには根拠などなにもなかった、とリンギスは回想する。

──そういうエピソードだったと思う。

リンギスは旅先で、面識のない、紹介されたわけでもない男に道案内を頼むこともある。ついていって、殺されるか見捨てられるかもしれない。

そう、もはや信頼を支えるなにものもないところで、それでも、あるひとを信じる。そういう「信頼」についてリンギスは語る。

先の、憲兵にはたらきかけた詩人も、自分が必ず暴行を止められる、まして力づくで憲兵を止められる、などという考えは持っていなかっただろう。それでも、たまさか、だろうか、そこには「信頼」が生まれた。

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マルチン・ブーバーという哲学者がいる。『我と汝』がとりわけ有名だ。彼は『対話』という本で、ふたりの人間が、なんらの会話もせず、お互いを知りもせず、それでも同じ場にいてふと交感することがある、と語る。

ふたりは議論によってではなく、もはや言葉によってでさえなく、目を合わせることがなくても、魂の底で不意に通じ合う。

憲兵と詩人の逸話は、ブーバーのこの思想を思い出させる。

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私たちは、日頃、緻密なコミュニケーションをとる。仕事でミスがないように。プライベートの人間関係がこわれないように。居心地がよいように。

どんなにコミュニケーションに気を配っても、まだ脆いのではないか、という不安がときによぎる。

だが、その向こう側に、あるいはその奥底に、なにも交わさないで成り立つ、信頼がありうる。強固な、力強い。人間のもつ信頼を、僕らは信じられるだろうか?