2020年6月25日木曜日

対話について──M.ブーバーの『対話』からの抜粋試訳

M.ブーバーの『我と汝』『対話』(みすず書房の本では一冊にまとまっている)は心打たれる本だ。今回、その『対話』から一部を抜粋、試みに訳した。

「対話」とはなにか、考えるきっかけを与えてくれる。

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信[というもの]は、一回性の洪水のうちで立つ。その洪水には知が橋として架かっている。人間の精神がする仕事において、必要であるからと類縁や類型の学を打ち立てることはすべて不可避であるが、問う者の問いがあなたに、わたしに襲いかかるときには、それらの学を打ち立てる必要性に訴えることは逃避だろう。その洪水のうちでのみ、生きられた生は自らを試み、また満たす[のだから]。

わたしが世界の時空的な連続性を真に──人生にかなった[or 活き活きとした]仕方で知るのはただ世界の具体性においてだ。わたしはその具体性をそのつど知る、それには一瞬のまなざしがあれば十分だ。わたしはそれを構成要素に分解できるし、その構成要素を比べながら似たような現象のグループに割り振ることもできる。また、それらの構成要素をそれ以前の要素から導き出すことも、より単純な要素へ還元することもできる。──そして、こうしたことすべてのあと、わたしが経験した世界の具体性は[もはや]心を打たない。すなわち、分解できず、比べられず、還元できず、いまそれは戦慄すべき一回性においてわたしを見つめている。(……中略……)
世界の具体性のほんとうの名前とは、わたしにとって、各々の人間にゆだねられた天地創造なのだ。その天地創造のうちで、語りかけのしるしがわたしたちに与えられる。

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余談だが、ブーバーの写真を探せたら見てほしい。深い思想を湛えた愛情深い顔つきをしている。


翻訳:木村洋平