2021年2月9日火曜日

川久保玲と反逆のファッション

コムデギャルソンを率いるデザイナーの川久保玲さんは、ファッションにかぎらず「反骨精神」を強調する。


川久保さんは、コロナ禍で服の生産がストップし、不安を抱えても、デザインの仕事をストップさせなかった。じぶんはずっと怒りが原動力になって仕事をしてきた、と語る。

他方、コロナでいっとき動きを鈍らせたり、止めた社会で、ひとびとの気力が失われていないか? ひとびとの反骨精神が。

彼女は服の力を信じている。モデルを生(なま)で見ないとわからない、デジタルでは半分も伝わらない。

いまの若い人たちは、無難な服を着ている。家庭や経済の事情があるにせよ、周りに同調していないか。──

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個として立とうとするファッションには、勇気がいる。時間もお金も労力もかかる。だが、得はあまりしない。「浮くだけだ」と多くのひとが思う。

服には、社会に対して、自分の位置を確立し、社会との間にせめぎあいを起こすはたらきがあると、哲学者の鷲田清一さんは論じる。

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以下、太字強調は引用者。

" ぼくらはファッションの冒険(それがかっこよすぎるとしたら)試行錯誤を通して、じぶんがだれか確定できないまま、じぶんの表面を、そういう社会的な意味の制度的な枠組とすり合わせつづけてきたのだ。その意味で、ファッションという、このからだの表面で起こるゲームは社会の生きた皮膚なのであって、そこに各人がそれぞれ〈わたし〉になっていくプロセスが露出している。"


" はじめはほくらを真綿のようにふんわりと包み、酸欠状態を経て、ついにはぼくらを窒息死させてしまう、「自粛」という名の自己検閲と相互監視のシステム。"


* この文章が書かれたのはコロナ前。


" けれども、ほくらはけっして「身分相応」の、飼い馴らしやすい存在になってはいけないほどほどのサイズ、人あたりのよいイメージのなかにすっぽり自分をはめこみ、そこで安眠を決めこんではいけない。つつましくおさまりきった〈わたし〉をたえずぐらつかせ、突き崩すこと。そう、じぶんの存在がちぐはぐであるという負の事実を、ぼくらの特権へと裏返さなければ……。ちぐはぐであるということは、 じぶんの存在ががちがちにまとまっていなくて、むしろじぶんのなかにじぶんをゆるめたり、組み換えたりする「あそび」の空間があるということなのだから。そして、かつて九鬼周造が瀟洒な随筆集のなかで書いていたように、できあがった「わたし」ではなく、「私が生れたよりももっと遠いところ、そこではまだ可能が可能のままであつたところ」までいつでも一挙に引き返せる準備をすることだ。そのためには、その存在の表面に張りをもたせておかねばならない。いつもじぶんの表面に最大限の張力を保っておくこと、これがファッションの原則だ。"




『ちぐはぐな身体 ファッションって何?』鷲田清一, 筑摩書房, 2005 より


ファッションの遊戯は、たえず社会と摩擦し、反骨を表すことで、自分の輪郭を保つ。それにより自己の存在を「ひととのあいだで」確かめるものなのだろう。