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原著は初版1980年。アメリカでは累計400万部以上売れて、20以上の言語に翻訳されているようだ。
僕が読んだのは10分ほどで、速読とカンを使ってたどった。序文の冒頭は、
「人生を明るく生き、憂うつな気分をなくす最新の科学的方法を提供します。」
反射的に、「この著者は人間的には終わっているのだろう」と思った。明るい人生だけがよく、負の感情はいらない、そのうえ、「最新の科学」でそういう生が実現するという。なんという軽薄さ。
最後の一章は「絶望感と自殺」に当てられていた。そこには、50歳くらいで失業して自殺願望を抱く男の症例が載っていた。それに対して、著者は太字で(原文はイタリックか)「声を大にして」宣言する。
「自殺が唯一の解決法と考えるなんて、あなたは間違っています」
その理由は、「非論理的」だから、だそうだ。
人生を深く悩み抜いたひとが、こんなかんたんに片づけられた物言いをされたら、どれほど傷つくだろうか?
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20世紀後半の精神医学が行き着き、いまに至るまで変わらない主流派の思考がここにある。それは行き過ぎた、安易な合理主義である。
僕は、現代の日米の精神医療をあまり信用していない。そのメインストリームは薄っぺらい思考によって汚染されていると感じている。もっとも、実践的に役立つ場面はあり、有効活用したらよいと思うけれども。
しかし、精神医療の話は文明の一例にすぎない。この行き過ぎた安易な合理主義が、20世紀半ばから「アメリカナイズ」として世界を席巻し、世界中の学問、文化、ライフスタイルに影響を与え、社会の通念として浸透したと思う。
他方、20世紀の半ば過ぎまでは、実存の哲学が骨太に築かれていた。実存の思想はヨーロッパで生まれて展開し、人間存在の根っこを追求し、人生を深く考え、そこから言葉を紡いだ。
そのなかにはすぐれた精神科医もいた。V.E.フランクルは、アウシュヴィッツ強制収容所から生還した代表的な実存思想家だ。フランクルの『夜と霧』は、名著として日本でも読み継がれている。彼の本は、このブログのほかの記事でも紹介した。
これら実存の哲学は、西欧文明の行き詰まりや二つの大戦を受けて、どのように生きるかを真剣に模索するなかから生まれた。
実存主義は、「矛盾する人生」や「割り切れない世界」について考え続ける。だから、安易な合理主義とは正反対にある。しかし、実存の思想はだんだんと「時代遅れ」になり、代わって大量消費文明を築いた「アメリカナイズ」の波が、安易な合理主義を世界中に拡散させた。
その結果のひとつが、『イヤな気分〜』のような本の大流行だった。
「絶望」や希死念慮について言えば、19世紀にキルケゴールが『死に至る病』のなかで書いたように、自殺願望や絶望と、人間は闘う可能性をうちに秘めており、いざという時には「自殺」や「絶望」にさえ向き合えるからこそ、人間なのだった。
さらに、キルケゴールは言う。もはや「絶望」に向き合うことも、それが世の中にあることも認められなくなった人間は「真の絶望」の状態にあると。つまり、絶望や自殺を安直に考えて片づけるような態度は、自分という存在の根っこ、人間のもつ本当の課題から目を逸らし、思考を停止した、救いようがないひとのすること、ということだった。
こうした群衆を、ニーチェは19世紀の終わりに「おしまいの人間たち」と呼んだ。彼らは日々のせわしない生活のこと以外、たとえば理念や理想、人間本来のあり方といった問題については考えることすら思いつかず、そういう話題になると「目をぱちくり」させるという。
これら、「真の絶望」と「おしまいの人間たち」のひとつの表れが、『イヤな気分〜』のような本のベストセラー化だった。
それは結局、安易な合理主義の行き着いた、文明のなれの果てだ。干からびた大地に、もうなんの実りもない場所で、「明るく生きよう」と言ってペットボトルの水を飲んでいる姿が浮かぶ。
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僕の大学時代の話に移る。僕は2005年頃から、東京大学の教養学部、哲学科(正確には、科学史・科学哲学 専攻)に在籍していた。
当時、ヴィトゲンシュタインという哲学者に傾倒していたが、ちょうどヴィトゲンシュタインの後期の主著『哲学探究』を読む院生のゼミがあり、学部生ではあったが、参加していた。
一年間、ゼミの時間の1/3から半分は僕がしゃべっているか反論している、というような無茶をやった。週に一回ゼミが開かれ、該当箇所の精読をするが、そこの和訳やレジュメを、当てられてもいないのに、毎回のように用意し、勝手に配った。そして、黒板に図を描いて解釈をする教授(准教授?覚えていない)に対して、「先生、それはすべてまちがっています」と遮って、僕が講義をしていた。
教授や十数名の修士・博士課程の先輩方にはご迷惑をかけて申し訳なかった。よく聞いてくれたが、ただの一回も、僕の話が理解された、という感覚は持てなかった。
「木村さんの言うことは、つまり既存の、〇〇先生が解釈しているのと、同じことでしょう? それはすでに古い……」
といった反応に対して、断固として「いや、僕が読んだ範囲で、誰も『哲学探究』を正確に解釈できていない。すべて安易すぎる」と反論していた。
一年ほど、それを続けた後、担当の教授(日本でヴィトゲンシュタインの権威)に「私は、君のラッセルにはなれませんよ」と言われ、そのゼミを離れた。卒論も、哲学では書かなかった。
ちなみに、ラッセルというのは、ヴィトゲンシュタインの師であり、20世紀始めの論理哲学・言語哲学の世界的な権威だった。ラッセルは、ヴィトゲンシュタインの天才を見出し、「自分は退いてもいい。あなたなら、これからの論理と言語の哲学を担える」と激励して、彼の背中を押した。ヴィトゲンシュタインの主著『論理哲学論考』の序文を書いて、世界に広めるための手伝いもしている。
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ここには、個人的な問題と、文明的な問題があり、ふたつは絡み合っている。まずは、個人的な事情から。
僕は、その教授(野矢茂樹さんだが)に、ラッセルになってほしかった。そこには教授に対する甘えと、自分の運命に対する甘えがあった。そして、まっすぐに一貫した態度を貫けば、世界が僕を認めてくれるのでは、という淡い期待を持っていた。この弱さへの自己認識が今でははっきりある。
しかし、誰かに認められたかったのは、成功や人気がほしかったからではなく、あまりに孤独だったからだった。学部時代にひとりだけ思想の話を深くできる友人がいた。しかし、彼を含めて誰一人、僕が構想する「遊戯の哲学」を知るひとはいなかった。当たり前だった。「なにもかも遊び戯れている」という遊戯の哲学は、今まで、誰も作り上げず、おそらく着想を得たひとすらいない。(後から、莊子は遊戯の思想の偉大な先達だったと気づいたが)。
「遊戯の哲学」を本にすることは僕にしかできない仕事であり、使命だと悟っていた。それは恐ろしく重い責任に思えた。仕事としては完遂できても、その過程で感じる孤独と、責任の重みに耐えきれないだろうと感じた。
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こうして自分が揺らぎ、戸惑いのあるなか、文明の問題まで考え切ることはできなかった。僕が戦っていた相手は、周囲の環境ではなく、現代の文明を侵す恐るべき浅はかさ、すなわち、ものを深く考えず、薄っぺらで中身のない、表面だけ「論理」の整った正論を言う──あの安易な合理主義だった。その大波に、反旗を翻していることを十分に自覚できなかった。敵は巨大であり、大量消費文明と地続きの空虚だ。
* なお、個々の学者、研究者の考えや思いについて、なにかを言いたいのではない。
しかも、東大は特殊な大学だった。成り立ちからして官僚養成学校であり、論文生産工場という側面が強い。一番、アメリカナイズを受けやすく「グローバル・スタンダード」にさらされる場所でもある。そこは、20世紀半ばまで世界でみられた古き良き学問の廃墟だった。
こんな風に敵の姿を見誤り、使命に奉仕する覚悟も持てず、僕は敗北した。どうして、なにに敗北したのか、もはや見る眼を持てなかった。
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30歳の時、『遊戯哲学博物誌』を書き上げた。出版が難航したため、そののちも数年間、加筆や訂正を加えて、刊行した(2017年)。
その間、僕が考えていたことは以下のようなことだった。
・幸せになりたい
・幸せとは、家庭を持ち、安定した勤め先があり、実家も含めて健康であることだった。
・ふつうの人間になりたい。哲学の衝動に取り憑かれたり、人間精神や文明のような巨視的な問題を考えることに、もう疲れていた。
当時のノートには、"ordinary"(ふつう)という単語が数十回、走り書きされている(もう捨てたが)。
これは、まさに「真の絶望」に向かう、「おしまいの人間」に僕もなりたい、ということだったのだろうと、厳しい見方ながら思う。
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エヴァンゲリオンやまどマギといったアニメが流行った。あれは、「魂を抜かれた」現代文明のなかで、「自分の魂を最後まで売り渡そうとしない」少年少女のストーリーである。
まどマギには、杏子がさやかのために、自ら退路を断って戦い、死ぬシーンがある。そこが一番、シンプルに表現していると思うが、「魂を売り渡さない」とはたとえば、友情という形のないもののために、命を懸けることだ。
杏子は逃げることもできた。友人はいずれにせよ助からない。それなら逃げる方が「合理的だよね」とささやくのが現代の思考である。
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今のアニメといっしょにするのははばかられるものの、古代ギリシアの叙事詩『イーリアス』でも、英雄のアキルレウスは、友人のパトロクロスが亡くなったために、戦場に復帰する。そして、敵の大将を討ち取った後、矢に射られ、自らも命を落とす。
「パトロクロスも死んだのだ」
というのが、イーリアス全編とギリシア哲学に響き渡る、アキルレウスの台詞である。人間は死すべきものだが、愛や友情に生命を懸けることもできる、という人間の尊さを示している。
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哲学者のM. フーコーは『言葉と物』の最後に「人間は消える」という予言をした。19世紀末に「神は死んだ」が、20世紀末には「人間が死んだ」と言えるかもしれない。
もう「魂を抜かれ」てしまった人間は、地上の世界より高いものをなにも認識できなくなって行くのだと感じる。それを目指すのが本来の人間であるのに。イデアの希求、イデアへの渇き。
ところで、『言葉と物』のはじめの方には、短いページ数だが、中世・ルネサンスの「万物照応」(コレスポンダンス)の思想が綴られている。
すべての事物は意味を持っており、それがお互いに照らし合い、響き合う。世界をなす無限のネットワークがその網目に光を走らせるような光景だろうか。
本ブログのこちらの記事にも通じる(蜘蛛の糸でつながる生命)。
これをアニミズムの思想と結びつけられる。インド、バングラデシュに伝わるベンガルの思想にも、アラスカ先住民の思想にも、星、草、風、光、鉱物、オオカミ、人間、なにもかもに魂が宿る、それをひとは感じ取ることができる、という考えがある。
* ベンガルの話は『バウルを探して 完全版』による。
ワタリガラスは、世界中に広く分布し、ひとを寄せつけぬ大氷河にも、都市のマクドナルドのゴミ箱にもいる。北米先住民の神話において、ワタリガラスは創造主であり、トリックスターでもある。
神話のなかの「行動が読めない」いたずら者として、創造もすれば、ばかばかしいこともする。ハイダ族によれば、最初の人間はワタリガラスがつついたハマグリから生まれた。
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僕は以前から北海道に無性に憧れ、惹かれてきたが、北海道やアイヌはベーリング海を通じて北米大陸とつながっていた。人類は、このルートを通り、2万年近く前にユーラシア大陸から初めて北米大陸に渡ったという。
北米先住民のトーテムポールに彫られた動物は、すべて人間の祖先なのだそうだ。ハクトウワシ、クマ、シャチ、サケ。そして、ワタリガラスも。
つまるところ、僕は自分がワタリガラスの子孫なのだと思っている。それが「遊戯」と「吟遊詩人」につながる自分のルーツだと考える。
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さて、話を戻すと、魂を守り抜く人間と、魂を抜かれた群衆の間で、ふたつの陣営の戦いがいまもおこなわれている。
こちら側の陣営には、ヘラクレイトスやプラトン、孔子、ブッダとその弟子たち、古代インドの王子アルジュナ、ベートーヴェン、ハイダ、クリンギット、ナバホ族らの北米先住民、古今の偉人や芸術家が揃い踏みしている。
あちら側の陣営には、ポピュリズムの首脳や声の大きいひと、有象無象の知識人やその他がいる。
私たちが負ける目はひとつしかなく、それは途中であちら側につくことだ。
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誰のなかにも、きっと「魂のある部分」(魂を守ろうとする部分)と「魂のない部分」(魂を抜かれた部分)があり、両方が同居している。
獄中で30年近くを過ごし、人種差別と過酷な闘争をしたネルソン・マンデラは「誰のなかにも善がある。それを信じて、そういう相手と思ってはたらきかけるように」と言っている。
エシカルSTORYの代表としても、詩人、作家、ひとりのひととしても、そういう善い部分に向かって話しかけ、耳を傾けていたい。それとともに、自分やひとが「魂を守り抜く」ことをできなくてもよい、と思える心を持っていようと思う。
これからも、「こちら側」で現代文明に立ち向かいもする。だが、ワタリガラスのようにくだらないことをして、「あちら側」へも渡り、彷徨いもする。周りには、友人や仲間もいる。遠く離れた作家や芸術家もいる。
そういったいろいろなことから神話が生まれ、世界が再創造されんことを。
故郷の川 |
本当の旅は、いつでも、こちらとあちらを行き来することだ。
──長文を最後まで読んでくださった方々に感謝します。