誰しも人間を「条件」で判断してしまう場面がある。
「あのひとは、どういうひとか」
・ルックスがいまいち
・服装はおしゃれだ(今風である)
・就職先の安定感に欠ける
・学歴が高い
その逆、等々。
これがクセになると、自分のことも「条件」で見るようになる。気づかないうちに。
たしかに、他人からどう見られるか、という適切な自己評価ができることは有用な処世術だが、その見方に浸かりすぎると、知らず識らず自分を深く傷つける。
自他の「条件」を冷静に見られるひとが、成功した例も見てきた。彼らの価値観は「無難」の印象が強い。要領よく、そつなく、etc...
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無難より、冒険を選ぶひともいる。
失敗したら、また立ち上がる。そうできなければ、彷徨い歩く。
だが、「失敗した時、蔑みの眼で見られるだろう。いや、見られもせず、見ないふりをされるか」と思われるかもしれない。
しかし、誰かがじっと見守っている。いつもそうだ。どんなに「条件」が不揃いに思えても、見るひとは見ており、そういうひとと出会う。不思議だが。
僕は弱って放浪していた時、世界中からいっぺんに見捨てられるか、それとも、愛する人や社会からおおいに受け入れられるかの二択を考えた。どちらも起こらなかった。
大切なのは、気にかけてくれたひとに深く感謝をすることだった。いま、遅ればせながら記憶をたどり直している、何度も。
人間の「条件」をいくつ足し合わせても、全体としての人間はでき上がらない。
そして、理想に生きた人間は美しい。