2021年2月21日日曜日

遊戯の哲学──基本編

 遊戯の哲学についても、──エシカルや詩とのかかわりで──また見えてくる景色が変わったので、書いていきます。

去年、10月高知の白岩英樹先生と対談した時、

「ざっくり説明して!」と言われて思いついた説明がわりとよかったです。


はじめに「なにもかもが遊び戯れている」。これが原理です。
だから、宇宙の全体が、星も塵も生物も、みな遊戯しているだけ、そうしてすべてが肯定されている、全肯定の世界。

それが遊戯の世界観です。

このように遊戯の哲学は、一元論です。が、この後、世界はふたつに分けられます。なぜかというと、人間はそれぞれ、生の遊戯 Lebensspiel(レーベンスシュピール)を生きているからです。

さっきのようなイデア的(理念的)な見方をすると、人間も「遊び戯れている」だけです。

ところが、人間は地上の具体的な生において、自分の「生の遊戯」を始めます。

例としてアキルレウス(古代ギリシアの英雄、アキレス)を挙げるのですが、彼はトロイア戦争において戦い、敵の大将を討ち取るという、運命を背負っており、それを理解していて「トロイア戦争でヘクトール(大将)を討ち取る」遊戯をします。
そして、討ち取った後、その戦いの中で自分も死にます。

このように、「生の遊戯」とは命を懸けるもの、一生を賭けうるものです。そうでなくとも、人生の一時期を本気で費やすものかもしれません。たとえば、職業生活でしょうか。

そして、この「生の遊戯」のなかで、初めて「罪」や「苦悩」「死の恐怖」「憎しみ」といったものも生まれます。

もともとは、世界の全体が全肯定されており、そこには遊戯以外のなにものもありません。そこに「生の遊戯」が始まることで、地上のレベルでは無数のネガティブなものも、制約やルールも、枠組みや、多数のものの見方も、生まれてきます。

こうして、イデア的/地上的の2つの次元が誕生します。宇宙的/地上的と分けてもよいかもしれません。


僕らはみな、地上の「生の遊戯」をどう引き受けるか、そのなかでどのように遊戯するか、という真剣なところを生きています。

他方で、やはり原理としては世界には「遊び戯れる」という遊戯以外のなにもないのです。だから、どんなに真剣で、深刻で、本気の人生においても、根本ではすべてが遊戯している、その感覚──感覚なのか、思想なのか、もはやなんと言っていいかわかりませんが、そうした遊戯が僕らの生をも貫いています。

〜・〜・〜・〜

この遊戯の思想は、「勝手な、でっち上げの暴論」と思われるかもしれません。が、ネイティブ・アメリカンの美しい考え方に触れていても、聖書を読んでいても、20世紀なかば頃までのすぐれた哲学者の本に触れていても、感じることです。

「ソクラテス以前」という言葉が、哲学にありますが、ソクラテス以後が「ロゴス」(理性と論理)に支配されていく哲学になるのに対して、それ以前の哲学は、どこか流れる水のようです。とらえどころがなく、詩のような美しさがあります。

ヘラクレイトスやタレスといった哲学者たちの断片が残っています。

ソクラテス以後でも、ヘレニズム期のエピクロス(快楽主義、として知られるが)なんかはとても優雅さや柔らかさがあり、自然学や形而上学などをまとめて考えることのできる、すぐれた詩的感性がありそうです。


<エピローグ>

ぼくはじぶんを「哲学者」と名乗ることが、ほとんどなく、ここまで来ました。
代わりに「作家」「哲学する」といった言い方をしてきました。

それは、議論する理屈のテツガクに興味がないからです。

哲学は詩であり、生であり、美しいなにものか。

古代ギリシア語でいうカロン(真善美)なのです。

それはことばそのもの、私たちの生のあり方と存在の仕方です。

***

思想は、たしかに魂に属しています。
が、もし魂が天へ還るのなら、思想は地上に残るでしょう。

他方、詩心は魂そのものなのです。


<基本編、おわり>