2021年3月2日火曜日

エシカルSTORYと「詩の図書館」


エシカルSTORY と新しく始めた「詩の図書館」を並行して更新しています。


「詩の図書館」は note を使っています。

ほぼ毎日(いまのところは!)詩の一節や、詩的な文章、物語などを公開しています。

「引用」+ひと言(解説というほど硬くはない)という感じで、読む人が非日常の気分転換ができればいいな、と思っています。

***

とはいえ、「なんでそんな趣味のようなことを?」「どっちもマイナーだけど、本当に必要なの?」と思われるかもしれません。

僕は大真面目なので、どちらも大変、必要だと思っています。

「エシカル」は、2つの意味で大切です。

☆ ひとつは、「サステナビリティ」がメガトレンドとして世界(国際社会)を席巻しており、Z世代のエシカルトレンドと合わせて、今後、エシカルな価値観や「どんなひとがエシカルと呼ばれるのか?」は、ぜひ知っておく意義がある、という点。

☆ もうひとつは、宗教のような超越的な価値規範が非常に薄れた現代で、また、芸術もほとんど見向きもされないような現代の風潮のなかで、ひとが人生の根幹に据えられるものとして「倫理」(エシカル)を考える、発信することは有意義だと考えること。

倫理は、「他者によいこと」をしますが、根本的にはそれが自分の支えにもなります。

ニーチェの言う「神が死んだ」は、キリスト教の衰退の話ではなく、「地上的な価値観」を超えたもの(=イデア的なもの)に対する、感性が死んだ、という意味です。もっとかんたんにえいえば、政治・経済・社会にしか、ひとは興味がなくなったということです。

まさに現代の日本は「社会」(政治・経済・社会をまとめて。地上的な価値観)以外のものについて、ほとんど語られなくなりました。

これはある意味で、強烈な抑圧です。それは精神を病んだり、しんどくなったり、自殺するひとも増えるはずです。

なぜかイデア的なものを希求できない風潮のなかで、SNSにはネガティブ、過激な発言、感情論、過度な感傷が渦巻き、逆に、そういったものへの反動としての冷たい知性や、単なる甘やかし、自意識の過剰、あらゆる「ごっこ」(幸せごっこ、恋愛ごっこ、慰めごっこ、みせびらかしごっこ、その他)があふれかえります。


倫理をもつひとは、そういう精神を損なうノイズに距離を保てます。


さて、「詩の図書館」(と、吟遊詩人)の意義も、この2番目の点と同様です。

私たちの日常は、「政治・経済・社会」といった制度的なもののほかに、関心をもてなくなりつつあります。

いまの世間で、「愛」や「信義」「真実」といった言葉が、ある意味で歯の浮くポエムのようにしか、非現実的なもののようにしか、響かないところがあるのは、そのためです。

もちろん、と言ってよいでしょうけれど、人間は愛や信義や真実のために生まれたのであって、第一義的には、政治・経済・社会のために生まれたのではありません。

この「政治・経済・社会」は先に述べた「地上的な価値観」であり、私たちの日常をほとんど支配しているものです。それが行き過ぎたため、もはや「非日常」といっても、「政治・経済・社会」が提供する娯楽、旅行、ゲームなど、そういったものに占められています。

そう、出口がないのです。

日常も非日常も、政治・経済・社会に呑まれています。

そのなかで、本当の非日常に会える場を作り、そこで、いったん「政治・経済・社会」から離れて、自分を見つめ直すなり、家族や身近なひととの関係を、古典に照らすなり、本当に大切なものはなにか(つまり、愛、信義、真実とはなにか、といったこと)を考える時間をもてることは幸いでしょう。

そのために、「詩の図書館」や吟遊詩人の活動があります。活動というか、もはや生き方ですが。

当たり前ですが、──「エシカル」はまだ「政治・経済・社会」と接点を持っているとはいえ──本物の倫理や、詩、哲学は、「政治・経済・社会」からはずれています。

それらは地上的な価値観では、測れないものを扱っているからです。人間の限界(地上的な限界)を超えたところに向かい、失敗しても挑み、イデアを希求し続けるのが、「本当の人間」なのです。政治・経済・社会だけを考えるのであれば、それは単細胞です。(控えめに言っても)。

そして、「詩」と言いましたが、これは詩心、深い感性といった意味ですので、芸術を広く含みます。映画も、絵画も、彫刻も、音楽も、舞台も、みんな「地上的な価値観」を超えていきます。

そういったものの素晴らしさを、(社会的な素晴らしさではありません)伝えることが大切であり、必要だと思います。

***

と、こう論じてくると、「つまり、社会のなかで「役に立たない」と言われるものを大事にするんですね?」「社会の外に出るんですね」と言われそうです。

実は、これはそんなに単純な問題ではありません。

僕が目指すのは、「役に立たない」ものを社会の外に求めることによって、それがこの世界の土壌を耕し、肥沃な大地とし、豊かな土地を育み、結果として、政治・経済・社会の領域で生きる人間が、心豊かに、また生き生きと、健やかに暮らし、はたらけることなのです。

だから、最後は「社会」にそのよさがs還元されます。

つまり、「政治・経済・社会」や「役に立つ」と言われるものを、いったん離れて、ぜんぜんちがうところに育った豊穣さを持ち帰らないと、政治・経済・社会も人間も、どんどんやせ細り、死んでいく、ということです。

だから、僕の活動は、最終的には、政治・経済・社会、地上的な価値観、人間の日常、そういうものに貢献すると信じています。そう確信している、と言ってもよいです。

だから、結局は「ひとの生活が豊かになること」のために、上の2つの仕事があるともいえます。

たびたび、「本当の豊かさとはなにか?」が問われますが、だいたいこういう感じで答えられるでしょう。

(2020年末、NECの取材を受けた時に、「哲学者の木村さん、本当の豊かさってなんでしょう?」と言われて、きちんと答えられませんでした。いま、宿題を果たします。)

なんだかかなり長くなりましたが、こういったわけで、エシカルSTORYと吟遊詩人をこれからもよろしくお願いいたします!