2021年6月12日土曜日

責任と「果てない約束」

 


責任という言葉は、哲学でも問題になります。

今回は、社会的な責任と倫理的な責任について、ふたつに分けて僕なりに考えてみます。

まずは社会的な責任について。

原発事故が起きた時、東電の当時の会長、勝俣氏は責任を問われましたが、去年だったか、不起訴になりました。

つまり、「責任は取らなかった」と言えます。
あるいは、「社会的な意味では、責任はなかった」ということです。

ほかにも、任期中でなかったために、のちのちの問題に対して、責任をとらなかった例は多くあります。政治家でも公務員でもそうでしょう。

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結局、社会的な責任というのは、──とても大事なものではあるとしても──契約や法律や社会的な規範が、司法のシステムに反映されて問われるものなので、そのシステムさえクリアしていれば、責任は生じません。

あとは世間の目、というものが残るでしょうが…。

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それに対して、倫理的な責任があります。

倫理的な責任は、本来の責任と言いたくなりますが、それは「他人の苦しみ」に対して生じ、それを背負う、ということです。

たとえば、親や、身近なひとが病気で苦しんでいたら、食事や洗濯の世話をするだけでなく、その精神的な苦しみに対しても、分かち合い、担うということ。

実際的なことと、精神的なことの両輪。

これが「責任を持つ」ということだと僕は思います。

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では、その責任はどこから生じるのでしょうか?

社会的な責任なら、法律や契約によって生じるでしょうが、倫理的な責任は?

それは「約束」によって生じるのだと思います。

そして、この約束はたとえ言葉で交わされなくても生まれます。

たとえば、兄弟姉妹が身体障害を持っているひとは、道で車椅子のひとを見かけた時に「なにかできるかな?」と考えるかもしれません。それもなんらかの「約束」だといえます。

そして、その約束は、社会的なタスクや役職ではないので、終わりがないかもしれません。

この約束は「果てない約束」なのです。

目に見えない絆によって結ばれる約束。これだけが、本当の人間関係だとも考えられます。

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僕はギリシア叙事詩の「イーリアス」の例をいつも出すのですが、勇士アキルレウスは友人のパトロクロスと友情を誓いました。

はじめアキルレウスは戦線を離れていたのに、パトロクロスが戦死した時、かたきである大将ヘクトールに挑むため、戦場に戻ります。

この時、アキルレウスは、自分が死ぬ運命を知っていました。実際、パリスの矢に射られて戦死します。が、その前にヘクトールを討ち取り、勝利の礎を築きます。

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こうした「果てない約束」のために、責任を果たす──そういうものが本来の「責任」だと僕は考えます。

そういう「約束」と「責任」の姿は、宗教や神話にかぎらず、民話でもアニメや漫画でも、映画でも描かれていると思います。

日常の小さなおこないにも見られます。

そういう約束と責任を理解するひとが、生き方に反映させる時、それは人間らしい、すぐれた生になるのだと思われます。