2021年12月20日月曜日

文学・芸術・思想が今、社会のなかで重要だということ

僕は「文学、美術、音楽などの芸術と思想、哲学が、今の時代において社会のなかで重要である」と思っています。

その理由をひと言でいえば、芸術や思想が人間と社会の闇を見つめ、確認し、共有するために重要な役割を果たせるからです。


10年以上の間に、さまざまなバックグラウンドのひとと話す機会がありました。なかなか話しにくい家族の事情や、闘病のこと、職場の苦しみなどを聞きました。

ひとには、社会的なハンディであったり、健康上のトラブルであったり、精神的な苦しみ、恋愛のネガティブさ、つらい記憶など、暗く否定的な側面があります。

それは誰にでもありますし、そういったものがあることは、まったく異常ではありません。むしろ、それが昔から人の世のあり方だと僕は思います。

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少し歴史を遡って考えると、21世紀の日本に生活する僕らは今、「市民社会」のなかにいます。市民社会とは19世紀のヨーロッパに生まれ、広がり、成熟した中産階級を中心とする社会です。

かんたんに言えば、18世紀末のフランス革命をきっかけに「王や貴族のような特権階級と平民に二極化して分かれる社会」から、「中産階級が大きなボリュームを占め、明確な身分制度を廃した市民中心の社会」に変わりました。

中産階級とは、ブルジョワ(仏)やビーダーマイヤー(独)という言葉に象徴されるような「市民」であり、ゆとりのある私生活が送れるひとたちでした。

しかし、人間の社会がぱっと明るくなるはずもなく、中産階級の社会には裏面も当然ありました。

それを典型的に描いたのが、19世紀の前半に活躍したフランスの作家、バルザックです。ものすごい文豪で、エネルギッシュに執筆し、バラエティ豊かな市民の悲哀と葛藤を描きました。

つまり、表面的には「美しい妻と、真面目な夫が温和な家庭生活を営み、ちゃんとした仕事をしながら、寿命をまっとうするまで楽しく生活している」ように見える社会のなかで、その裏面に隠された、人間関係の泥々や、恋愛の愚かしさ、世間には言えない苦悩などをユーモラスに描いたのです。

それが「人間喜劇」と呼ばれるバルザックの一連の小説でした。

なお、少し極端に言うと、そもそも「小説」とは、市民社会の諸相を裏表すべて描くための文学装置かもしれません。

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さて、そういう文学の力と機能は、今の日本でも変わりありません。

つまり、文学や芸術、思想が持つ大きな役割の一つは、私たちが「良識ある市民」ないし中産階級であることを是とする社会で生きるなかで、表面にのぼってこないような暗く否定的な側面を見つめ、それを思考し、表現することなのです。

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中産階級がだいぶ崩壊した今の日本でさえ、支配的な価値観は昭和の頃から進歩がありません。あるいは、バルザックが描く19世紀パリと大差ないとも言えます。

つまり、「よい学歴を持ちつつ、安定就職をして、健康な相手と結婚して、子供を健康に育てる」のが「幸せ」である、それ以外はなんらか「イレギュラー」であり、なるべく「ふつう」に暮らすのが世間体もよく、自己満足もでき、なにより「幸福」とみなされる、という価値観です。

しかし、当然ながら、大半のひとはそんな「表」の幸福をきれいに実現はできず、むしろ「すねに傷持つ」ような、つらい事情を若い頃から抱えています。それらは多種多様であり、みな人知れず、苦労して乗り越えようとするのです。

僕の見るところ、優良自治体のキャリア公務員や、ホワイトと呼ばれる大企業に勤める者同士が結婚する、いわゆる「パワーカップル」以外はほとんどそんな「ふつう」の生活はできません。

しかも、今の日本はパワーカップルでさえ、親が健在で、そばに住んでおり、子育てを手伝ってくれてやっと家庭が回るような状態です。

というわけで、この社会には、表に出されにくい否定的な要素、暗い過去やつらい記憶、人知れずに抱え込まれた苦悩が山のようにあるわけです。それは渦巻いていても、社会の表層では見えづらくされています。

これらの暗く否定的な部分をしっかり表現して、深く考えられるのが文学・芸術・思想の持つ力です。

その力は古典文学にかぎらず、漫画やPOPミュージックにもあります。手塚治虫や宮崎駿さんは思慮深く、器が大きいですね。

こうした作品群に時間をかけて触れ、自他の苦しみに向き合うことで、人間についてバランスよく、深い洞察ができるようになると思います。

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さらに、文学・芸術・思想はコミュニケーションも生み出せます。なぜなら、コミュニケーションは「表現する」ことから始まるからです。

誰しも心の深みを持っており、悲しみや苦悩がたくさんありますが、それを言えなければ、余計に苦しいし、孤立してしまいます。

しかし、それを文学・芸術・思想の力を借りて表現し、共有して、「おしゃべり」できれば、お互いに感情の負荷を軽くできます。悲しみも苦しみも、分かち合えるからです。

あるいは、今すぐに表現できなくても、少なくとも「表現するのはいいよね!」という空気が社会にあると楽です。「ああ、そうか。言おうと思えば、言ってもいいんだ」と思えるからです。

逆に、文学・芸術・思想が軽視される社会では、暗黙のうちに「深刻な話はNG」「"ふつう"でないひとは黙っていろ」「病気や家庭がつらいという話はしないのがマナー」という空気が濃くなります。これは大変、不健全な世の中といえます。

だとすると、自分たちが精神的に「楽になる」ためにも、古典や良い作品がもっと読まれ、共有されるのがよいと思われます。

まさに実利的な意味で、文学・芸術・思想の重要性があるわけです。

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「この世界には広い意味での詩が足りない。詩心と、その表現が…」と、そんな風に僕は思っています。