2012年8月17日金曜日

ジブリの魅力の源泉は?ーー幼さの残る若い女の子の世界。


1. アメリカのお父さんは、ジブリに惹かれている。

ディズニーとジブリについて、こんな記事を読んだ。



小さな娘をもつお父さんが、子供には、ディズニー映画よりは、宮崎アニメを観てほしい!と言う記事だ。

その理由は、だいたいこんなことらしい。

「プリンセスが登場するどのディズニー映画でも、ロマンスは「引力の法則」、もっと率直にいえば性的関心に基づいている。」

ここが、お父さんの気に入らない。ディズニーのヒロインは、性的な魅力を前面に押し出している。それに対して、宮崎アニメでは、性的な要素は少ないか、副次的である。そこで、お父さんは、ディズニー対ジブリを、

「性的な魅力」対「関係性」

という副題でくくって話をする。

「これに対して宮崎アニメでは、性的魅力が一役買うのは確かだが、そうした魅力は男女関係の一要素に過ぎない。」

とのこと。宮崎アニメでは、ヒロインと男の子の「関係性(relationships)」は、性的な魅力のほかにも、多くの複雑な要素で築かれる。これがよいのだ、とお父さんは言う。ほかにも、ポイントはあるのだけれど、そこは省略して結論にゆくと、

「ディズニーのビジネス複合体が、宮崎監督というすぐれたストーリーテラーによって置き換えられ、米国の子どもたちに、よりすぐれた物語とロールモデルが提供されるとしたら、素晴らしいことだ。」

と結ばれている。

どうだろうか?

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2. ジブリでは、うら若い女の子が主役になる。

ディズニーについての分析は、ここでは差し控えて、宮崎アニメ(日本の慣習にしたがって、以下、「ジブリ」とも呼ぶ。)について、もう少しよく見てみよう。

まず、ジブリのヒロインないし主人公が、みな、うら若い女の子である点に注目したいと思う。

最初の作品、ナウシカに始まり、「ラピュタ」のシータ、もののけ姫もそう。さきのアメリカのお父さんが好きだと言う、千と千尋はもちろん、「耳を澄ませば」の雫は、中学一年生。お父さん、自分の娘には、「魔女の宅急便」を見てほしいそうだけれど、魔女見習いのキキは13歳。

不思議に思われたことのない方もいるだろうけれど、ジブリでは、ディズニー映画に出てくるような、「(成熟した)大人の女性」が主役として登場しない。代わりに、幼さの残る、若い女の子がヒロインになる。ほぼ例外はない。これは、驚いてもよいところだ。

ついでに、ジブリにおいては、男の子よりも女の子が、物語で主要な役割を果たす点にも注目したい。ナウシカでは、アスベルという男の子がサポート役に回るけれど、あまり個性的には描かれていない。ラピュタでは、パズーは勇敢な少年で、大活躍するが、あくまで物語の中心は、飛行石をもつシータ。「耳を澄ませば」では、雫の心理は揺れて、詳細に描かれるけれど、「聖司くん」は、揺らぎのない理想的な青年として、ある意味、単純に描かれている。

作品は沢山あるので、一つ一つみてゆけないけれど、大方の印象としても、ジブリ映画(宮崎駿作品)は、「うら若い女の子が主役になってきらりと光る」とまとめても、あながち的を外さないと思う。

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3. ジブリ映画の魅力の源泉とは?

では、なぜ、ジブリには、うら若い女の子がよく出てくるのだろう?

POPシンガー、ブリトニー・スピアーズの歌に、こんなタイトルの曲がある。

"I’m Not A Girl, Not Yet A Woman”

「私は、少女じゃない、だけどまだ女性でもない。」こんな風に訳せるだろう。思春期を迎えたブリトニーの、「狭間」を表現している。つまり、子供扱いされる少女ではないし、かといって、成熟した大人の女性でもない。独特の時期。(日本語では、これを「女の子」と表現できる。日本語の「女の子」は、とりわけ現在では、幼い子供だけでなく、二十歳を過ぎた女性にも使える言葉だから。)

宮崎駿は、ここに焦点を当てているのだと思う。「遊んでばかりいる、もののわからない子供の世界」と、「世間を渡っていくために、うまくやらなければならない大人の世界」との狭間にある、「女の子の世界」。

そのどっちつかずな、だけど、それゆえに底が知れないような、奥行きのある世界。それが、ジブリ映画のほんわかした、不思議な魅力の源泉なのではないだろうか。

そして、ジブリ/宮崎駿は、その女の子の世界を、とても多様に描き出す。女の子は「かわいい」だけじゃない。ナウシカは、「かっこよく」て、「大胆不敵」だ。シータは、反対に、「おしとやか」で、「神秘的」に見える。サツキちゃん(となりのトトロ)は、「しっかり者」の「お姉さん」で、「家族思い」。もののけ姫には、「野生」。ここには、沢山の個性がある。

しかも、それだけでなく、よく言われているように「人間的な成長」が描かれている点にも注目できる。キキや千尋は、映画の中の体験を経て、「少女」から「大人」へのステップを踏み出す。まだ、大人にはなりきれないのだけれども、その過渡期で、プロセスを確実にこなしていく。それもまた、この「狭間」の時期の魅力ではないだろうか。

まとめると、子供と大人との狭間の時期である「女の子の世界」において、「多様な個性」と「人間的な成長」を描き出すことが、ジブリ作品の魅力の源泉であると思う。

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4. どうして「女の子」でなければいけないのか?

ところで、ここで、素朴な疑問が浮かぶ。どうして「女の子」でなければいけないのか?

大人と子供の「狭間」の時期を描くのはいいが、それなら、なぜ、中心となる人物の性別が、ことごとく「女の子」でなければならないのだろうか。男の子の思春期では、いけないのだろうか。たとえば、聖司くんの心が揺さぶられたり、雫の前で戸惑ったりするストーリーではダメなのか。

一つには、女の子の方が、理由はよくわからないけれども、男の子よりも、魔法のようなオーラを、なんらかの秘密を、不思議な魅力を、備えているから。ともかく、そういう風に「一般的に」思われやすいから、とも答えられる。だが、それは、ジェンダー論的な意味での、「男性中心」の視点ではないか、と反論されるかもしれない。実際、その通りという気もする。

そこで、もう一つの理由に目を向けてみよう。それは、ずばり言うけれども、宮崎駿が「幼さの残る、大人になりきれない若い女の子」が好きだから、という理由だ。この点、人間的な関心だけでなく、異性への憧れもはっきりと含めたうえで、その存在に惹き付けられてやまないのだと、僕は思う。そして、たぶん、この理由が一番、大きいのだろう、とも。好きだからこそ、その世界の魅力を、あんな風に多様に描き出せるのだろう。

あえて、俗な言い方をすれば、制作者としての宮崎駿の精神には、「ロリコン」という言葉がぴったり当てはまると思う。「幼さの残る、若い女の子を(異様に)愛でる」という。それは、宮崎先生に対する冒涜だ、と思われるかもしれない。けれども、僕には悪く言うつもりはない。性は、古今の芸術の普遍的なテーマだし、制作者が、自分の独特な性へのこだわりを昇華させて、作品に仕上げるのは、すぐれたことだ。

ただ、「ジブリは、掛け値なく素晴らしい」という賛辞を割り引く効果は、あってもよいと思う。たとえば、「作品では、性的な要素が表立っていないから、宮崎駿も、性的な要素に無関心な態度で制作しているにちがいない。」とか「性的な要素をほとんど抜きにして、これだけ魅力ある世界を築き上げられるのは、魔法のようだ。」と、考えることの方が、よほど誤解を招くと思う。

この点は、僕ら観衆にとっても、他人事ではないという気がする。ジブリが好きな人は、男性にかぎらず、女性でも、子供でも、おおよそ、「幼さの残る、若い女の子が一生懸命に頑張っている」姿を見るのが、好きなのだ、ということ。そこに託す気持ちは、「我が子の理想」「ファンタジーの心地よさ」「感情移入」「異性への憧れ」など、それぞれだとしても。

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5. アメリカのお父さんへ。二つの物語のモデル。

こんな風に、ジブリにもまた、ある種の性的な要素が、魅力の源として織り込まれている。たしかに、それは必ずしもセクシャルな意味ではない。というのも、「大人の女性」は登場しないのだから。冒頭の、アメリカのお父さんが言うような、「性的な魅力」とは少しちがう。けれども、代わりに、大人と子供の間に立った「女の子の魅力」が外せないものだということ。これは忘れられない。

だとすれば、お父さんが図式化したように、「性的な魅力」対「関係性」といった仕方で、ディズニーとジブリを対比する試みは、うまくゆかないと思う。そんなに単純ではない。まして、結論部でお父さんが言うように、宮崎アニメの方がすぐれている、と言うのは、僕には言い過ぎだという気がする。(お父さんは、ほかの理由も挙げているが、そこは割愛。)

僕の方で、すごく単純な形で図式化し直すならば、ディズニーとジブリとは、

「王子様がお姫様を助けて、結ばれる話」と「幼さの残る、若い女の子が一生懸命、頑張る話」

という、二つの「物語のモデル」なのだと思う。どちらが良いというものではなくて、ただ、時代の流れとか、社会の空気とか、当世風の好みとか、そういうものに照らして、どちらかが良い、と、そのときどきで思われるのではないか。

いずれにしても、ジブリの魅力の源泉については、現在、「人間性」(ヒューマニズム)ばかりがクローズアップされて、評価されすぎているように感じる。あの不思議な空間の魅力は、「女の子の世界」を扱うからこそ得られる、という点にも、注目されてよいと思う。そこから、少し、ジブリ熱を冷ました見方も、できるようになるのではないだろうか。