2013年3月30日土曜日

吟遊詩人のまなざし


偉人の伝記を読んでいると、「これほど歴史に残る仕事をしたひとでも、こんなにも些細なことにこだわったのか。」と思って、不思議な気分になることがある。たとえば、穏やかな賢者という趣のあるスピノザ(哲学者)でさえ、暴徒が街を荒らしたときに平静ではいられなかったというエピソード。ほかにも、ベートーヴェンがお金のこと、買い物のことなど、事細かに記した日記を読むと、「そうか、彼も生活をしていたんだ。」と当たり前のことに気づく。

今回は、偉人の話がしたいわけではないのだが、「時間を超えた」視点の話をしたい。後世から見れば、「そんなことは(理想や、高邁なもの、人間にとって大切なことがらからすれば)全然、重要じゃない。」と思われることに拘泥した歴史上のエピソードはたくさんある。だから、あまりに権力闘争や損得勘定の絡んだ歴史は、学ぶ気がしなくなることもある。それは、わたしたちが無意識のうちに、「時間を超えた」視点から歴史を眺めるからで、その際、過去の出来事に対しては、現実の断片よりも、一貫性のある物語を求めがちであるから、だろう。

さらに、そこでは、物語性が生じるばかりでなく、「フィクション」と「現実(ノンフィクション)」の境目も曖昧になる。たとえば、「イーリアス」という古代ギリシャの叙事詩は、史実に基づくが、ホメロスという詩人が物語った点では「フィクション」を含んでもいる。そして、どこまでがフィクションでどこからが実際に起きたことか、という学問的な線引きとはべつに、古の物語は、総じて、どこか浮き世離れした、架空のおとぎ話のようでもあり、現実に起きた事柄でもあるような、二重性をもつ。

さて、「吟遊詩人のまなざし」へと話を運ぼう。わたしたちは、自分たちが現に生きている時間のなかでも、さきに述べたような「時間を超えた」視点をもつことが、しばしばある。たとえば、ある夏に仲間と旅行をする。それは、終わってみると、あっけなかったような、いまとは隔たりがあるような、遠い日の出来事のような、そんな気がする。身近なひとを亡くすと、生前の出来事が鮮やかに思い起こされる。そういう記憶の作用は、時の彼方を見つめるような気分にさせる。

こういう出来事の眺め方を「吟遊詩人のまなざし」と名づけたい。「遠さ」の感覚、現実との「隔たり」の感覚を伴い、少し「時の彼方」を見つめるような気分にさせるまなざし。ある種の「時間を超えた」視点をもつこと。これは、さきの通り、古人の伝記を読むときに、自然と取りがちな態度でもあるし、歴史に触れるときにしばしば構える仕方でもある。

ただし、そのまなざしは、単なる「ノスタルジー」(懐かしさ、懐古趣味)や、「失ったことがらへの愛着」、「非現実への没入」(または、「現実逃避」)といった態度とは異なる。ここで問題になっているのは、どんな「感情」に浸るかではなく、現実に対する「距離感」である。「吟遊詩人のまなざし」の先にあるものは、(現実であるという点で)「はるか彼方」というほど遠くはないが、かといって、(フィクションの感覚を含む点で)目の前にあり、その渦中へ自分を巻き込むほど近くもない。遠すぎず、近くはなく。そんな宙ぶらりんの距離感のもとに置かれる。

こうして、「吟遊詩人のまなざし」は、まったくの凝り固まった現実とも、夢想の物語ともちがう、それらの間で現実と隔たる、遠さをもつ。そのとき、わたしたちは、一方では、現実の些事に拘泥することをやめることもできるだろうし、他方では、フィクションや夢想に没入して現実を見失う過ちからも、逃れられるだろう。そうした間合いを、妙味のある距離を掴もうとする。

これは、いわば生の美学の問題である。そういうまなざしを獲得しようとする生き方もできる。それが「美しい」かどうか、「よい」かどうかは、ひとによる。また、実際には、わたしたちは現実のさなかで「距離感」など気に掛ける余裕さえないかもしれない。けれども、「吟遊詩人のまなざし」をもつひとは、どこへゆくのか。そのひとは、旅をするような浮遊の感覚を忘れないだろう、と思う。