2013年10月10日木曜日

はてしない物語のふたつの読み方——ファンタージエンの友達


はてしない物語には、ふたつの読み方があると思う。焦点は後半だ。ここは文学的で、思想的になっているが、奥底には平明なものがあると思う。それをどう読むか。

『はてしない物語』はミヒャエル・エンデの作品で、児童文学として日本でも親しまれている。物語は、「でぶでエックス脚の」いじめられっ子、バスチアンが古本屋に入るところから始まる。彼は、ある本に引きつけられて、店主がいない間にその本を盗み出してしまう。お母さんが死んでからというもの、お父さんは虚ろになってしまった、学校では教師からも仲間からもばかにされる。バスチアンには居場所がない。そこで、学校の屋根裏にある物置に籠もって、バスチアンはその本を開いた。それはファンタージエンという世界の不思議な物語だった。——

物語の前半は、ファンタージエンの大冒険が描かれる。本のなかの本の主人公アトレーユは勇士であり、幾多の危機を乗り越えてファンタージエンの世界を滅亡から救おうとする。そのためには、実はファンタージエンの「外」にある人間の子供の力が必要だーーバスチアンはいつしか本の世界に文字通り「引き込まれてゆき」、そのなかへ入ってしまう。そして、バスチアンが最後の鍵となることで、ファンタージエンは救われる。

ここまでが『はてしない物語』のなかでもとくに有名な部分ではないかと思う。不思議な本のなかと外がリンクして、現実世界では才能のないと思われている、だが想像力だけはふんだんに持ち合わせている少年が、本のなかの世界を救う。ところが、ここから難解な後半部が始まる。

後半では、ファンタージエンを救ったことにより、その世界ではどんな望みもかなえられるようになったバスチアンが奇妙な冒険をくり広げる。バスチアンが「物語」をすると、それがファンタージエンにおいては現実になる。あらゆる望みがかなうバスチアンは、美しい容姿や無類の強さ、知恵といったものを順々に手に入れていくが、その代わりに現実世界の記憶を次々に失っていってしまう。ファンタージエンで友人になったアトレーユは、彼を心配してもとの世界に帰るよう説得するが、それを疎んじたバスチアンは「もう帰らない。」と宣言し、アトレーユと決裂、ファンタージエンを二分する戦争まで引き起こし、アトレーユと剣で切り結ぶ。その後はひとりで放浪するが……

後半の読み方でたぶんポピュラーな、受け入れやすいものは、バスチアンの成長物語であるというものだろう。ドイツには、ゲーテ以来「教養小説」(これは誤解を招きやすい訳であり、原語はBildungsroman。英語のbuildに当たる言葉+小説で、「(人間や人格の)形成小説」という意味。)というジャンルがあるが、その一種と読む読み方である。主人公(バスチアン)はいろいろな体験をする、失敗もする、だがそのなかで学ぶ、そして誠の人間として生まれ変わる、という読み方である。それによれば、万能の魔法を手に入れたバスチアンが、はじめはそれを楽しみ、次いで慢心してゆき、ついには世界の「帝王」になろうとして友人さえ刃にかける、だが、その後の放浪のなかで、記憶をなくしてゆく自分に危機を覚え、また、「最後の望み」として「愛すること」を見出し、現実世界に戻っていく、というストーリーである。

こうして、バスチアンの人格が陶冶され、完成される「教養小説」である、というのがひとつ目の読み方である。しかし、僕はこの読み方に疑問を感じる。どうも、バスチアンにはきちんとした人格がないように思える。決断や選択も主体的と感じられない。ものごとのなりゆきに任せて、心情のゆくままに物語は流れてゆくだけのようなのだ。

それどころか、バスチアンは堕落してゆくようにさえ見える。ファンタージエンの帝王になろうとしてそれを諫める友人を刃にかけるわけだから。非がバスチアンにあるのは明らかだ。そして、その後の放浪でも彼は記憶を失い、望む力も少なくなり、このままファンタージエンに閉じ込められてしまうのではないか、というところまで状況は切羽詰まる。そして、最後にバスチアンは名前さえ、失ってしまう。「バスチアン・バルタザール・ブックス」は「名前のない少年」になってしまう。自分の名前も忘れたのだ。

それを救ったのは、アトレーユだった。アトレーユはバスチアンといっしょに現実世界に帰れる門に来て、バスチアンの代わりに門を司る者と話をする。

「記憶のないものは、ここへ入ってくることができない、蛇たちは通さない、といっている。」
「かれにかわって、ぼくがみんな覚えています。」アトレーユが叫んだ。「かれ自身のこともかれの世界のことも、ぼくにはなしたことをみんな覚えています。ぼくが証人になります。」

だが、おまえになんの権利があるのか、と問われてアトレーユは答える。

「ぼくは、かれの友だちです。」

その結果、「名前のない少年」は門を通過することを許され、「生命の水」を得て現実の世界へ帰ってゆく。父とバスチアンは愛情を取り戻し、バスチアンはこの体験の前よりも勇敢な少年になる。彼は、本を盗んだことを告白するべく、古本屋に向かう。店主はそんな本は置いていないし、バスチアンに会った覚えもないと言うが、バスチアンが不思議な体験の話をすると耳を傾けて、こう言う。

「そうだな。」ぼそりといった。「きみは幸せだよ。ファンタージエンに友だちがいるんだから。みんながみんなそうってことじゃないんだよ。」

この言葉が、『はてしない物語』の後半を解説しているように思う。これは「教養小説」の類ではない。バスチアンはものごとのなりゆきに取り込まれ、自らその一部としてふるまった。その怒濤の流れが物語の後半を形作っており、ついに最後の裁定の場面に至る。そこで、彼を人間世界に帰したのは、アトレーユの言葉だった。バスチアンは、たしかにいろいろな体験をしたのだが、決定的な場面で彼はまったくの無力だった。実際、名前まですべての記憶を奪われて、なにもできなかったのだ。

ここでアトレーユが登場することには、ふたつの意味を読み取れると思う。ひとつは、もちろんバスチアンの「友だち」であったということ。そして、もうひとつは人間世界の、現実世界の住人ではない、本のなかの住人であるということ。

だから、最後の古本屋のセリフにつながっていく。「きみは幸せだよ。ファンタージエンに友だちがいるんだから。」ファンタジー(空想)の世界に「友だち」と呼べるような存在がいるということ。それは、わたしたちみんな、本を読むことに楽しみをもつひとならば、誰でも体験できることだ。バスチアンでなくても。そして、そういう「友だち」をもてるかどうかは、ときにひとの人生を左右するだろう。彼らはわたしたちを支えてくれるからだ。ほんとうに、古本屋の店主が続けて言ったように、

「みんながみんなそうってことじゃないんだよ。」

誰もが「友だち」をもてるわけじゃない。おそらく本を愛せるひとだけが……

本のなかに、それも「作者」ではなく、ファンタジー世界の登場人物に「友だち」を見出せるということが、とても価値のあることなのだよ、とエンデは語りかけているように思える。