2013年10月21日月曜日

【映画を読む】クロワッサンで朝食を


フランス映画「クロワッサンで朝食を」を観て来た。シンプルだけれど、深みのある映画だ。この映画を「読解」してみよう。※ 以下では、ストーリーの詳細から結末まで触れるので、これから観にゆかれる方は読まないことをおすすめします。

エストニア人のアンヌは、齢50を過ぎた女性。故郷で介護をしていた母の死をきっかけに新たな仕事を始める。それは、パリでエストニア人老婦人の家政婦として働くというもの。空港で彼女を待っていたのは、ハンサムな同世代の男ステファン。彼は老婦人の家にアンヌを案内をして、「辛辣な皮肉屋」だから気をつけるように言い残して去って行く。

老婦人フリーダは、気紛れできつい女性。アンヌは手作りの朝食も食べてもらえずに、この仕事を辞めようかと挫けそうになる。ステファンがそれをとどめるが、「あなたはフリーダの息子なの」とたずねるアンヌに、彼はフリーダが昔の恋人であったことを明かす。孤独なフリーダの来歴を知るにつれ、愛をもって接するように努めるアンヌ。パン屋で買ってきた美味しいクロワッサンを朝食に並べて、ついにフリーダからよい家政婦として認められる。

フリーダとアンヌは、ふたりでパリの街を歩く。ふたりは母と娘のような、少し親密な関係を築き始める。だが、ステファンのひと言で物語の雲行きが怪しくなる。「僕には僕の人生がある。」もう愛のないことを思い知らされたフリーダは不機嫌になり、また辛辣になる。慰めようとして事態を悪化させたアンヌは、フリーダと決裂、家を飛び出して故郷への帰路につく。

ここから、物語は速度を速めてクライマックスを迎える。ステファンがひとりでフリーダの家をたずね、泊まって行く。ふたりの間にはなにも起こらないが、眠ってしまったステファンの耳に「あなた、アンヌと寝たでしょう」とフリーダが笑顔でつぶやく。翌朝、結局、帰るのを思いとどまったアンヌがフリーダの家を訪れる。鷹揚なフリーダが出迎えて、やさしく言う。「ここはあなたの家よ。」

こうして、ハッピーエンドで終わる。

最後のところ、展開は早いし、なぜフリーダが心の余裕と愛情を取り戻したのか、いまいちわかりづらい。なんとなく答えるとすれば、「アンヌと喧嘩別れになったのを後悔し、自分のもとに仮にも戻ってくれたステファンの愛をうれしく思って……」といったところだろうか。やや唐突なハッピーエンドにも見える。

ここをきちんと「読んで」みよう。最後の場面は、アンヌとステファンがふたりそろって、フリーダの家に招き入れられるシーンだが、ここはまるで息子と娘が母親の家に帰ったような映像になっている。フリーダが母親で、アンヌとステファンは息子夫婦、または娘夫婦だ。ここに物語を解く鍵がある。

フリーダはステファンの「昔の恋人」であり、恋愛関係を引きずっていた。けれども、それは捨てられて見込みのない関係だ。他方、アンヌに対しては、「よい友達でもあるような家政婦の女主人」という立場だった。どちらも、フリーダにとっては中途半端な人間関係であり、彼女の孤独を癒すものではない。そこで、フリーダは無意識のうちにか、半ば意識してか、ステファンとアンヌのふたりにとって同時に「母親」の役回りになるという決断を下す。それが、もつれて不安定だった関係の糸を切って結び直した。三人は、一挙に親密な三角形を築くことに成功する。これが物語の「解決」であり、ハッピーエンドの意味である。

だから、ステファンとアンヌが「寝た」ことに対しても、フリーダはもう腹を立てたりしない。フリーダは恋の第一線を退き、むしろ、ふたりの仲を喜ぶ。そして、ふたりの息子と娘に愛され、また彼らを愛する「母親」という安定した立場を見出したのだ。

ちなみに、「クロワッサンで朝食を」の原題は、フランス語で "Une Estonienne a Paris" であり、「パリのエストニア人」だ。なんて素っ気ないタイトル、と思われるかもしれない。だが、よく見てみよう。冠詞の "Une" がついているから、単数の女性形だ。「パリのひとりのエストニア人の女性」となる。それは誰だろう? 映画のはじめを見る観客にとっては、まちがいなくアンヌだ。田舎から大都会パリに出て、厳しい環境で新しい人生を歩み始めるのだから。だが、物語のクライマックスになると、表題の意味する女性はフリーダに変わる。三人の関係が破綻するのを食い止めたのは、フリーダが母になるという変化、そう、この映画は全編を通してフリーダの成長物語であったとも言える。ステファンとアンヌは、恋に落ちたけれども人間として変化したり成長したわけではない……。

こうして、映画の原題にも深い意味が込められていることがわかる。アンヌとみせかけてフリーダ。そういうユーモラスなねじれ、ちょっとした遊び心のある引っかけが、この原題には込められている。こんな風に、この映画を「読む」ことができるだろう。