2014年4月14日月曜日

僕の好きな俳句たち(1)

山本健吉『俳句鑑賞歳時記』を読んでいると楽しい俳句に出会うので、いくつか紹介したい。春の句から。

雪とけて村いっぱいの子ども哉 小林一茶

こういう無邪気な句はとても好きだ。すらりと読めてわかりよく、それでいて一文字もゆるがせにしない。

外(と)にも出よ触るるばかりに春の月 中村汀女

これも直接的な句。「外に出てみなさいよ。触れそうなほどの春の月です」という、冒頭の強い呼びかけがやわらかい「春の月」に終止してゆく様は見事。

ふらここの会釈こぼるるや高みより 炭太祗

「ふらここ」は「ブランコ」のこと。唐代の女性を思い描いているだろう、と山本健吉氏は読む。西洋絵画にもこういう構図があった。

灰捨てて白梅うるむ垣ねかな 野沢凡兆

これは一見、ふしぎな句。灰を捨てると白梅が「潤む」のはなぜなのか。なんとなく、そう見えるのか。それとも、もともと雨に濡れていて、それが灰で引き立つのか。いずれにせよ、単純な描写のなか、俗な風景のなかに、奥行きと俗でない美しさが見える。作者は芭蕉の門。

一昨日はあの山越(こえ)つ花盛り 向井去来

芭蕉は「この句、いま聞く人あるまじ。一両年を待つべし」といったという。「おととい越えた山が、いまは花盛りになったな。あのときはまだつぼみか二分、三分咲きだったのに。」といった意味。これも単純な句のようで、その長い「振り返り」の仕草が印象に残る。芭蕉が「二年待たないと理解者は出ない」と言ったのも、単調のなかの気長さ、それは春の日の永さにも通じる、それがむずかしいと感じたからかもしれない。

虹なにかしきりにこぼす海の上 鷹羽狩行
「海上にかかった虹が、何かしきりに、さんさんと光りながらこぼす、微塵のようなもの。」と山本健吉氏は評している。「虹」は夏の季語。これは、明るく一息に読み下せる、むずかしくない句でありながら、どこまでも余韻を残す。

日盛りに蝶のふれ合う音すなり 松瀬青々
「夏の蝶を詠んだ傑作。「しづかさや岩にしみ入る蝉の声」に匹敵する。」と山本健吉氏の評。大変に褒めている。(芭蕉と比べているわけだから。)「心の耳」で聴く、二匹の羽の擦れ合う音。

【書誌情報】『俳句鑑賞歳時記』、山本健吉、角川ソフィア文庫、2000