2015年1月12日月曜日

【エッセイ】ハイパーなひとびと

ここでは「ハイパー」なひとびとについて話をしたい。「ハイパー」は僕の造語だが……。

1.ハイパーとはなにか。

以前、友達が「精神的に危ない状態になると、おしゃべりが止まらなくなる」と言っていた。理解ある友達が聞き役に回ってくれると、解消できるそう。その状態を「ハイパーになる」と表現していた。このときから、僕は「ハイパー」という言葉を、一種の造語として頭に入れた。

自分にも思い当たる節がある。僕は哲学をするが、抽象的な問題にぴったりの概念を当てはめて、なおかつそれを平易な言葉で説明しよう、とするときなどに頭がフル回転する。回転のスピードも速く、速記もできないような、観念的な思考を経ながら、なんらかの文章に考えを落とし込む。その後、消耗した状態が訪れる。この間を「ハイパーな状態」と呼べると思う。

ところで、多動性の子供を「ハイパーアクティブ」と呼ぶ。「行動」のハイパーだ。だけど、心の動きや思考や芸術活動の「ハイパー」もあるだろう。

こういう、常人では想像しがたい状態に陥る、入り込むことを「ハイパーになる」と表現したい。それは、単なる「社会不適合」や「精神的な不安定」ではなく、多くの場合、なんらかの異色な能力になりうるのじゃないか、と思う。たとえば、芸術家として、または特殊な技術やスピードある仕事をこなす職業として。

2.ハイパーと心身のアンバランス。

ここで、経験的な仮説を立てたい。それは、「ハイパー」なひとは「特殊な能力や集中力を発揮することができる代わりに、なんらかの精神的消耗や不安定、あるいは心身の不調を抱えやすいのではないか」というものだ。

つまり、ひとは「ハイパーになる」という特殊さをもつと同時に、心身のアンバランスも経験することになる、ということ。「ハイパー」は周りのひとがついてこられないような異様な状態であり、その点、すぐれた能力や才能を発揮することもありえるが、その反動や代償として、「ふつうのひと」ならば、もたなくてよいような「病的」とも言える心身の状態も経験せざるを得ないのではないか。

これは自分を含め、周りの人と接していて、自然と抱いた感想であり、経験則にすぎないのだが、どうもそんな気がする。偉人やユニークな人物の伝記を読んでいてもそうだ。

3.ハイパーなひとはどうすればよいか。

さて、ハイパーなひとは、このように弱点も背負うことになりそうだが、では、どんな風にハイパーさとつきあうのがよいだろうか。おそらく、ふたつのことが大事だ。ひとつはハイパーさを長所として活かすこと。もうひとつは、心身のアンバランスを低く抑えるために、ハイパーさを制御するように心がけること、だ。

このふたつは両立できないわけではなく、妥協点を探すように、「活かす」と「制御」のバランス感覚を磨いて、ひとまずの安定が得られる生活スタイル、生き方を探し続けることが大切になるだろう。ひと言で言えば、社会的におさまりのつく生活に着地できるように「ハイパーになる」こと。

とはいえ、そんな風にはうまくいかないところが「ハイパー」なひとたるゆえんなのかもしれないが……。