2015年1月14日水曜日

超人的なもの(芸術、スポーツ)

ぼくにとって超人的なもの(芸術、スポーツ)は最大の関心事ではない、とこの頃、考える。強く持続的な関心はあるのだが、最大のではない、と思う。

ルネサンス以降の西洋の芸術や、19世紀以降にとりわけ盛んになったスポーツでは、超人的な技が注目を集める。ひとりの人間が恐ろしい集中力や訓練、長い職人生活をもとにして繰り出す技。そして、その底にある、異様なものとしての「天才」。

そういうものの成果が、ここで言う「超人的なもの(芸術、スポーツ)」だ。それはたしかに鳥肌が立つような驚き、素晴らしいという感動を与える。全身をもっていかれ、心の底から揺すぶられるような心地もする。けれども、それはひとときのことで、数ヶ月か十年経てば、それほどでもない、という気もする。

ここで「超人的なもの」に対置させたいのは、「普遍的なもの」だ。たとえば、ホメロスの叙事詩。マザー・テレサの言葉。そこには、ありふれた言葉も見られ、くり返しもあり、「オリジナリティ」や「(個人の)独創性」といった観念は意識されていない。

そこにあるのは一瞬の爆発やとてつもない閃光ではなく、持続するなにか、本を売るときの「ロングテール効果」のように、時間の継続を感じさせるもの。それは、いつしか起伏を忘れ、平坦にかぎりなく近くなりながら、それでも、心の奥底に水たまりのように残って、静けさを湛え続けるもの。

そういう普遍的なものにほんとうに心をひかれる。ゆかしさも、そこにはある。