2015年2月1日日曜日

西洋的なものの考え方の外へ

このエッセイの行き先は、西洋的なものの考え方の外だ。

5つの副題から成る。

(1)「メタの視点」に立つこと
(2)上からの見方と横からの見方
(3)ユーモアとアイロニー
(4)詩と知
(5)自由なひと

まず、(1)で「西洋的なものの考え方」の核心について述べる。それをべつの角度からくり返し眺めるために(2)〜(4)の各節がある。そして、最後に(5)で「西洋的なものの考え方」の外を示したい。



(1)「メタの視点」に立つこと

「メタの視点」に立つことは、西洋的なものの考え方の核心となっている。「メタ」というのはギリシャ語に由来し、「上」を意味する。つまり、「メタの視点」に立つとは、ひとつ上の次元に立ってものごとを見ること。そこから、認識する、判断する、批評する、といった思考法を指す。具体例を挙げよう。

ドゥルーズとガタリは、どこかの著書でこう言っている。「すべては政治的である」と。ここでの「政治」とは、実践的に「ものやひとをコントロールする」ことによって、自分が生存し、強い立場に立つことだ。だから、「すべては政治的である」とは、ひとの言動はすべて生存と強固な立場とを確保するためになされる、という世界観を表す。

たとえば、あるひとがジョギングをするとき、ふつうそれを「政治的」だとは考えない。しかし、たとえば「体力をつけることによって、ばりばり仕事をして、お金を稼いで、自らの社会的立場を強くする行為」と解釈することによって(ほかの、どんな解釈でもかまわない)、ジョギングも「政治的」になりえる。

あるいは、誰かにチョコレートをあげたり、子供が両親の肩を揉んだりしても、「力関係の調整」であるといった解釈によって、広義の「政治的」行為だとみなされる。こんな風に一段上のものの見方に立つ思考法が、「メタの視点」に立つ思考法である。

こういう「メタの視点」は、わたしたちの生活にあふれている。たとえば、新聞や雑誌の政治、文芸批評。とりわけ、学者や知識人の世界では、いかにユニークな「メタの視点」に立てるかが、勝負になっている。大学で学ぶ「批判的な」読解や考察も同じで、どう「メタの視点」に立つかを競い合う。さらには、SNSのこまかな書き込みですら、ひとより一段上にいかに立つか、多くのひとが発言を工夫している。

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(2)上からの見方と横からの見方

もう少し身近な場面でも考えてみよう。ここでは、「上からの見方」と「横からの見方」を対比する。

「上からの見方」は、ものごとを俯瞰的に捉えて、状況の全体を把握しようとする、ものの見方である。「Aさんはこう考えているだろうし、Bさんの立場はこれこれであり、Cさんの心理はこんなところだろうから……」というような考え方は、俯瞰的である点で「上からの見方」と名づけられる。

それに対して、「横からの見方」は、状況の真ん中で感じ、考え、振る舞うときのものの見え方だ。「Aさんがこう言ったので、僕はびっくりしてしまった。Bさんはこんな風にアドバイスをくれたので、それに従ってみようか。Cさんは泣いていたから、かわいそうだなあ」などと考えるとき、ぼくらはいまいる場所よりも、上に立つ視点を作り出していない。このまま話したり、行動したりすることは「横からの見方」をとることだ。

こういった「上からの見方」と「横からの見方」を対比させると、「上からの見方」が「メタの視点」に立つことと通い合うことがわかる。そして、「横からの見方」は次のユーモアにつながる。

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(3)ユーモアとアイロニー

ここで、同じようにユーモアとアイロニーを対比させて、また考えてみよう。アイロニーは「メタの視点」に立つもので、「上からの見方」と似通う。他方、ユーモアは「横からの見方」に通じている。

一休さんのおはなしで、殿様から、「フタを開けずになかのご飯を食べてみよ」と無理難題を言われ、茶碗を差し出された一休さんが、茶碗をひっくり返し、茶碗の方を開けて、フタに乗ったご飯を食べる話がある。

これはユーモアのある逸話だ。「うまい!」と、膝を打って笑う類のものだ。しかし、ここで、なにが可笑しいのかを説明するとしたら、どうだろう。「殿様は、フタを開けずに、と言ったが、ひっくり返したことで、フタは開けていない、茶碗の方を開けたことになるから、という理屈だ」などと。こういった説明が「アイロニー」に属する。

「アイロニー」は「皮肉」とも訳される言葉だが、日本語で言われる「嫌味」のような狭い意味にとどまらず、裏をかくような論理一般を指す。西洋思想史においてアイロニーの祖先はソクラテスであり、その独特の対話術は「ソクラテスのアイロニー」とも呼ばれる。それは、ソクラテスが、奇妙な問答法を使うことによって、相手がはじめに主張していたこととは、反対の結論を導き出させる弁論術を得意としたからである。その逆説性、表と裏がひっくり返ってしまうところ、いつの間にか当初の意図を覆されるところが「アイロニー」である。

一休さんのおはなしは、それだけ聞くなら「ユーモア」だ。でも、そのおはなしの面白さがどこにあるのかをきちんと説明すると、その言論は「アイロニー」になってしまう。アイロニーは一段上の立場から、ものごとを俯瞰的に見下ろして、説明する。すなわち、アイロニーとは「メタの視点」に立つ言論である。

ユーモアはそうではない。ユーモアはけっして「メタの視点」に立たない。ユーモアはいまいるところにとどまり、上の次元に上がらず、いまある視点からべつの視点へと飛び移る、ないし、横にずれる。そのユニークな移りゆき、ずれが、ひとを笑わせる。ユーモアは、ひとの硬い知性よりも、やわらかい感性に訴えて心を打つ。

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(4)詩と知

次の詩(俳句)は、「横からの見方」「ユーモア」に通じる。

山路来てなにやらゆかしすみれ草(やまじきてなにやらゆかしすみれくさ)

こう芭蕉が詠むとき、そこにあるのは「横からの見方」であり、さきのユーモアに通じる、力強くもやさしいまなざしである。それが詩になっている。その目はすみれと向き合っており、離れておらず、「メタの視点」に立つようなアイロニーの視線を打ち消す。

しかし、ここで、すみれを植物学のなかで分類したり、その客観的な性質をことこまかに記録し始めれば、それは「詩」ではなく、「知」となる。そのとき、「知」のひとは「メタの視点」に立つ。西洋の「知」は、「メタの視点」に立つことで成り立つ。

さらに言えば、西洋の「思想」と「文芸」はアイロニーに満ちており、どのようにして「メタの視点」に立つかの無数のバリエーションといった趣がある。西洋では、いまいる次元をいかに対象化して一段上に出るかを多様化し、そこに生まれる新たなものの見方を「オリジナリティ」として大切にする。西洋の言論や学識は、ほとんどすべてがアイロニーに染まっている。

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(5)自由なひと

こんな風に「西洋的なものの考え方」を眺めることができる。それは、「メタの視点」に立つ思考法で、「上からの見方」に通じ、「アイロニー」の言論を生み出し、「知」を形作る。このような「西洋的なものの考え方」は、わたしたちの日常の思考や知識から、教育、批評、学問といった社会的な領域、または文化の領域にも強い影響を与えている。そのことに、ふだんわたしたちはほとんど気づいてさえいない、とぼくは思う。

そのためにわたしたちは、いつのまにか西洋中心主義を受け入れることになっている。それは、いまの暴力的で、かつ「知的」で「政治的」で、物質面から思想・言論・文化の領域まで西洋的なものを優位に置く世界を受け入れることにもつながる。

それに対抗するために、あえて「西洋的なものの考え方」にとどまることもできる。そこにしか「抵抗の土俵」はないし、「抵抗」という概念さえもが西洋のものだとしても、そうするほかはないからだ。それは良心的な政治家や学者の仕事になるのかもしれない。けれども、ぼくらはそこから逃れることもできる。「戦う」のでも「抵抗する」のでもなく。流動する水のように、その外へ出る。

そう、「西洋的なものの考え方」の外で、自由なひとになる。それは、大きなムーブメントだとか変革だとかいうことには向かわない。大きなもの、体制を揺るがさない。けれども、ひとひとり分、自由に生きる。それはできる。

そのヒントは十分に示されたと思う。すなわち、「メタの視点」に立たないこと。たとえ「メタの視点」に立つ者から見下ろされたとしても、より上の(あるいは斜め上の)「メタの視点」に立つことで対抗しないこと。いまいる次元にとどまること。そこで、飛躍やずれで遊ぶこと。すなわち、ユーモアを発揮すること。アイロニーによってねじけないこと、ひねくれないこと。いじけないこと。いじめないこと。悪く言わないこと。そして、「知」という権力によって自分を強固に打ち立てるのではなく、「詩」によってひとを楽しませること。静かな心境を作り出すこと。自由で遊びにあふれた喜びを生み出すこと。

そうした道を歩み続けるなら、「西洋的なものの考え方」から脱出できる。そこで「横からの見方」によって行動するとき、まだ見ぬ世界が開ける。その一歩はすぐにでも踏み出せる、かんたんなことだ。ただし、持続するのはむずかしい。「上からの見方」へと抜け出ることは、頭さえ良ければできる。だが、「横からの見方」のもとで行動し続けることはかんたんではない。

あえてとどまるか、ゆくか。

遠くへ、もっと遠くへゆこう。歩く詩人。

行動する、楽しい詩人。自由なひととなって。