2015年3月10日火曜日

共依存について(3)

共依存について(1)(2)の続編で、「文化と共依存」について書いてみるのが今回。

これって意外に身近な問題なんだ、と気づくことができますように。もうしばしのおつきあいを!


人生でキツイとき、ひとを頼りたくなる。頼れるひとがいたらいいけれど、見つけられなかったら、どうするだろう? 本を読んだり、音楽を聴いたりする。そこにも、亜種の「共依存」の危険があるというのが今回の話。


たとえば、太宰治の文学は、心の負の部分を直接的に描くところ、口語調の文体、「描写」というより作者自身の「表出」であるかのような書き方などが心を掴むのかな、と思う。しかし、「共依存」の文脈で考えると、ひょっとして太宰治の小説を感動して読むことは、言ってみれば、著者・太宰と時空を超えて「共依存」に陥ることなのではないか、とも考えられる!

きっと文学、とりわけ小説にはそういうところがある。たしかに、読者と作者のかかわりは、実際の人間関係の「共依存」とは別物であって、相手が目の前にいないわけだから、誰にも迷惑をかけることはなく、あくまで自分のなかの衝動や感情の波と向き合う体験である。けれども、そこには類似の「危険」があるのではないか。

つまり、作品を通じて、読者が自分の投影した著者と、疑似「共依存」の関係を築くこと。著者の「自己意識」に対して「距離ゼロ」にかぎりなく近づこうとし、強い共感を求めすぎる、という。けれども、それは(相手がいないのだから)果たされない依存であって、結局のところ、ひとりで取り残される。

もし、それが「依存が拒否された」体験として納得され、読者が作品のなかから現実に戻ってこられるならば、よいと思う。けれども、「今回の依存はうまくいかなかったけれど、ほんとうはもっと依存したい」という新しい衝動を生み出し、またべつのかたちで作者や作品との対話を望むとしたら、危ういのではないか。現実にもそれを求めたくなる心性が作られないか。


ほかの例もざっと挙げてみよう。たとえば、村上春樹。彼は、どろどろした情念の「純文学」という日本の伝統がイヤだったから、ドライな文学を書こうとした、と自身について語る。では、「どろどろした情念」に拘泥しない村上春樹の文学は「共依存」を避けているのかと言えば、そうではない。

たとえば、村上春樹ブームを引き起こした『ノルウェイの森』は、内面が直接に描かれないだけで、少ない登場人物たちのあいだで、あちらこちらに「共依存」が形成される「共依存文学」の金字塔である。読者も、無意識的にせよ、それを十分に飲み込んで味わうはずで、作者が主人公に託した、作者自身のナルシシズムの空間のなかで、際限のない疑似「共依存」に耽溺できる。

ほかの作家さんと比較してみると、たとえば池澤夏樹は、多くの作品を通してきっぱりと「共依存」的な文学を拒んでいる。また、ハードボイルド系のミステリは、おそらく「依存」関係を主人公の探偵が一切断ち切る、という矜持によって成り立つ。これは「反依存」の系譜だ。漫画で言うと、『ジョジョの奇妙な冒険』はそうした系統で、「依存」を断ち切って「勇気」(作者自身のことば)を鼓舞する。


他方、「共依存」と、それを拒むもののあいだで、大きく揺れ動いたのが「エヴァンゲリオン」シリーズだ。エヴァンゲリオンは、少なくとも90年代のアニメと映画では、さんざん露骨に「共依存」を視聴者に要求しておきながら、クライマックスにおいては、ことごとく視聴者側からの共感と「依存」を拒否して、物語の受容そのものを破壊する。その一点において、「クール」であることを保った。

音楽で言うと、90年代以降のJ-POPは、なんらかの「共依存」を聴き手に求めるものが多い(典型例はミスチル)。クラシック音楽で言えば、シューマンの歌曲には共依存のロマン的な心性がある。

他方、もっとも厳しく、非「共依存」的な音楽を作り続けるよう己に課したのが、ベートーヴェンだと思う。たしかに交響曲は「共感」を求めるが、「依存」のない厳しさで「表現」に徹する。そして、苦しみの果ての晩年のピアノソナタ、そして、弦楽四重奏の後期作品(12〜16、とりわけ14がそう)は、もっとも美しい孤独の音楽が聞こえる。

おおざっぱにまとめるなら、作者が自分の情念やナルシシズムに対して「わたしに共感して!」と要求する作品ほど、「共依存」的な作品であり、反対に、そういう共感や没頭を要求しない作品ほど「共依存」的でないと言える。

※ ただし、文化の「共依存」的な傾向を拒もうとする芸術家が、単に「共感」を断ち切るスタイルで作品を作った結果、なんの表現にもなっていないか、乏しい内容しかもたず、「現代的なパフォーマンス」として以外に意味のない作品ができあがることもよく起こるので、注意したい。