2015年3月6日金曜日

リュート音楽、あるいは古楽の良さ



リュート音楽には、常になんらかの「抑制」がはたらいているように思う。それは感情の爆発や音響の激しさによって表現しようとはしない(できない)。たとえば、一部のロックンロールがそうするようには。

それは古楽の良さでもある。たしかに古楽にも、たとえばチェンバロのたくさんの装飾があり、序曲の激烈さやファンファーレ、オルガンの荘厳、40声に至るポリフォニーまである。古楽はけっして「不足」の音楽ではないどころか、満ち溢れる音楽である。けれど、そこにはいつも「抑制」を感じさせる。

だから、ここで言う「抑制」は、「100のうち70くらいしか表現しないこと」ではない。ほんとうの「抑制」は、音楽への情熱を爆発させるのではなく、それを持続させる。言い換えれば、音楽をしようという情熱を、平和や静けさ、落ち着きのうちで表現すること。

武満徹は、「僕は音楽をドライブするのは好きではない」(正確な引用ではない)とエッセイに書いている。「ドライブ」するというのは、情熱の波をそのまま音楽に反映させて、音響の大きさやメロディーの激しさに聴衆を乗せるような音作りだろう。代わりに、武満はバッハのマタイ受難曲を生涯、愛した。

ついでに、ビートルズのことも武満は好きだった。ビートルズは「ロックンロール」の代名詞だけれども、粗い乗り方をしない。彼らの音楽は「端正」とはかぎらないが、それでも、どこかに平静さがあり、それが楽曲を知的にさえしている。アルバムごとの「コンセプト」も、それでこそ生まれうる。

あらゆる表現行為には、情熱、生命力、発想の源といったものがあるだろうけれど、それを爆発させ、炸裂させ、シャウトする(叫ぶ)かどうかが表現の分かれ目になる。そうせず、ある静謐さのうちへ、理性より深い湖のうえで、表現することが、その表現を持続的なものに変えてゆく。