2015年3月10日火曜日

共依存について(2)

共依存について(1)の続き。


ふたつの遠回りを経て、「共依存」とはなにか、という問いに答える流れ。ひとつ目の遠回りは「距離」の話、もうひとつは「プラトー」の話。


さて、このふたつをつなげると、人間関係が順調にゆくのは、両者のあいだに適度な距離が保たれて「プラトー」状態が持続するとき、とも考えられる。距離感は「近い」のだけれど「近すぎず」、離れたとしても「遠すぎ」はしない。

その逆が「共依存」である。つまり「共依存」は、お互いが「距離」をゼロにするかのように、際限なく近づくこと、そのために「適度な距離感」や「プラトー」が形成されずに、ひたすら「エクスタシー」(愛情の極点)を求めてしまう状態、という風に言える。そのことで関係は極度に不安定になる。

もちろん「共依存」の前には「依存」があるから、それも見ていこう。依存は、「相手との距離をどこまでも近づけたい」という衝動として考えられる。ただし、片方がそうやって「依存」しても、もう片方がはねつける場合もある。あのパプア・ニューギニアの親のように、片方が適度な距離を保つようにさばくことができれば、「共依存」を防げる。


だから、人間関係ーーそれが親子であれ、恋愛であれ、友達であれーーにおいて、お互いが「距離を近づけすぎる」、しかもブレーキをかけないで「近づこう」としすぎるときに「共依存」が起こるだろう。

では、共依存のなにが悪いのか。ぼくはふたつの星のイメージをいつも思い浮かべる。ふたつの星が相手の重力(万有引力)を感じて、連星のようにお互いの回りを回っているうちは、心地良い関係を築ける。けれども、一度、真正面から引き合い、まっすぐに距離をゼロにしようとしたら、ふたつの星は衝突し、ともに無傷では済まない。

そんなイメージとして、「共依存」の結果、ふたりの人間が衝突を引き起こし、結果、お互いが大きな傷を負う場面を想像する。具体的な事態は、ケースバイケースだろう。けれども、本を読んだり、話を聞いたり、自分のさまざまな体験を通じて、その危険性を感じる。


ふたりの人間のあいだには、どこかで「あなたはあなた、わたしはわたし」という割り切った感覚をもって、適度な距離を置く、溝を認める、ある一線を引く、そういうことが必要なのだろう。それができないと、泥沼のような「共依存」のなかでもがくことになりかねない。

ついでに、「文化と共依存」についてちょこっと書いてみるのが次回