十年以上暮らしたミラノの風物でなにがいちばんなつかしいかと聞かれたら、私は即座に「霧」とこたえるだろう。ところが、最近の様子を聞くと、この霧がだんだん姿を消し始めたようである。ミラノの住人たちは、だれもはっきりした理由がわからないままに、ずっと昔から民謡やポップスに歌われてきた霧が、どうしたことか、ここ数年はめずらしくなったという。
「遠い霧の匂い」より
この本を出すときには、すでに日本に戻ってきて二十年が経ち、作者も還暦を迎えている。そのためか、どこか親戚のおばさんの昔語りを聞くような風情がある。
目につくひらがなの多さ、ふんだんに打たれる読点、やわらかな物言い、曖昧な記憶を辿りながらあちらこちらへゆき、ふっと霧のなかに途切れるように終わる文章。
それは、須賀敦子さんが鋭い筆致で描き出す、というより、口語で話すのを自ら記録したかのような文体である。それでいて、無駄なところがなく、テンポはゆっくりながらも、選び抜かれた言葉に、やがて引き込まれ、頁にひっそりと目を落とすような読書になる。
【書誌情報】
『ミラノ 霧の風景』、須賀敦子、白水社(白水uブックス)、2001