2015年6月8日月曜日

【本と珈琲豆】新訳『神学政治論』を読む(2)

【本と珈琲豆】新訳『神学政治論』を読む(1)よりつづき。

本書の次の1/3で、スピノザは、後世の文章や解釈者の独断論を排して、聖書そのものだけに基づいて聖書を読解することで、聖書が複数の著者による長い期間に渡って書き継がれた生成物であることを示していく。また、字句通りに信じる必要もないことを示す。いわば、聖書の「テキストクリティーク」が始まる。


ここも、スピノザ流の慎重さを期しているが、無神論や異端といった誤解を呼ぶのに十分である。というのも、このあたりの文章やスピノザの狙いが、やはり『エチカ』の思想なしでは(または、あっても)、非常にわかりにくいものとなっているからだ。

結論から言えば、スピノザにとって「自然の光」(=理性)によって世界を認識するひとは、おのずと神を愛し、徳をもち、優れた精神をもって生活することになるので、聖書は必要ない。キリスト教も不要である。しかし、こうしたひとはごく稀なのである。スピノザははっきりと言うが、民衆は愚かで迷信に惑わされやすく、理性を十分に使うことなどできない。

そこで、宗教が必要になる。宗教は「服従」(畠中さんの岩波旧訳では「敬虔」と訳されている。「服従」の方がよい訳語だと私は思う。)を教える。そして、スピノザ流の聖書読解によれば、キリスト教の教えは究極的には、隣人を愛せよ、に尽きる。(そのほか、正義や徳をもつことも含まれるものの。)この教えを民衆の(低い)理解力に合わせて教えるのが聖書であり、その歴史物語やなにかである。それら「史実」の真偽はある意味ではどうでもよく、ただ民衆が「隣人愛」をほんとうに実践するようになれば、聖書の役割は果たされる。

この点、スピノザの態度は両義的であり、キリスト教の教え(隣人愛)は、理性に照らしてよいものだと認めており、それが実践されるためには、聖書は「有用」で「必要性」もある。ただし、あくまで理性の足りない民衆にとってだ。

いずれにせよ、こうして理性の営みである哲学と、民衆を(隣人愛に)服従させるための神学が、明確に分離される。