2016年2月29日月曜日

FF6の良さを語る

FF6(ファイナルファンタジーⅥ)は、RPGゲーム。なぜか、そこに哲学や古代ギリシャをもってきながら、その良さを語ってみたい。

FF6は中学生の頃にプレイしたが、エンディングを見損ねて(データが飛んだ)、もやもやした思い出があった。それがおととし、iOSに移植されたので、iPadでプレイした。そこでぱっと思い当たった、FF6の良さについて語ってみよう。

FF6には、14人の主人公がいる。それぞれにエピソードがあり、動機があって行動をともにする。他方、物語は単純で、「過去に魔法の大戦があった世界で、いま帝国が世界を征服しようとする」というもの。

さて、このゲームの特徴はふたつある。ひとつは、単一のヒーローがいないこと。それどころか、14人もの登場人物に「主人公性」を分散させている。もうひとつは、ちゃちな仕方であれ、世界の歴史を扱っていること。

ひとつ目がとにかくユニークだと思う。ふつう、どんな媒体であれ、物語はひとりの主人公を中心に展開する。古代の英雄叙事詩でも、ホメロスなら「アキレウス」「オデュッセウス」がいるし、ぱっと飛んで「近代小説の祖」とも呼ばれるフローベールの『感情教育』でも、主人公はひとりで、彼の視点から時代の風俗や革命、女性遍歴が語られる。3人くらいまでなら『三銃士』という物語もあるが、14人の「主人公」にエピソードを分散させるという話はちょっと思いつかない。(群像劇ともちょっとちがうのだが……)。

もうひとつ、「世界」についてコメントしたい。たしかに、「世界」(の歴史)をテーマにする、という試みはめずらしくない。ライトノベル、SF、ハリウッド映画などいくらでもある。けれども、ほとんどの物語は、ある主人公を立てて、ドラマ性を高めるために「世界」をつけ加える。(ちなみに、群像劇×世界というやり方では、伊坂幸太郎の『終末のフール』が思い浮かぶ。)

そこで、FF6に戻ると、やはり「14人」が効いてくる。「世界」(の歴史)を物語にしながら、多くのエピソードに「語り」を分散させるという手法は、英雄譚とも近代小説ともちがう。これは神話にはみられることで、たとえば、ヘシオドスの『神統記』は多くの神を登場させながら世界の誕生を語っている……。(と言っても、FF6が神話を彷彿とさせる、というわけではないが)。

これらが僕にとってのFF6のユニークさなのだが、半ばブレインストーミングになった。実はこんなことを考えるのも、「ファンタジー」×「叙事的」×「神話的」な物語を書いてみたい、と思っているからだ。それがふつうの小説やヨーロッパ的な伝説の焼き直しへと引き摺られないように、と注意しつつ、新しい方向を模索するなかで、ぼんやり考えていたことのひとつの結晶としてFF6を題材にしてみた。そして、FF6、クリアしたけれど、気楽でわくわくして楽しかったです。

おしまい。