2016年6月12日日曜日

【本の紹介】フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』まとめ


フッサール晩年の思考の集大成。ヨーロッパの諸学(Wissenschaften = 知、学問、科学)を根本から立て直すための壮大な試みのために、方法論の青写真を描く本。


以下、ページ数や引用は中公文庫(1995)版に拠る。

この本は、1935〜36年の執筆になる原稿である。フッサールは、当時のヨーロッパにおいて実証主義的傾向の強まる科学/学問が、単なる「事実学」となり、ルネサンスから18世紀にかけて構想されていたような、「いっさいを包括する学」としての新しい哲学の理念から、大きく逸れてしまったことを嘆く。

その歴史を辿り、問題の由来を突き止めるのが前半部だ。まず、ガリレイが「新しい自然観」を作り出すところから。それは、「それ自体において実在的に完結した物体界」の誕生であり、同時に、「自然と心的世界」の「分裂」(p.108-109)をもたらした。物心二元論の登場である。

次に、デカルトだが、彼はコギト・エルゴ・スムの思考において懐疑を突き進めた点で、「判断中止(エポケー)」をおこなった人物と評価される。エポケーとは、目の前の日常まで含め、すべての妥当らしい判断を、いったん保留にすること。

ところが、デカルトは「客観主義」のうちに留まってしまった。客観主義とは、主客の二元論を前提とし、そこにあるものをものとして、そのまま認識できると考える素朴な態度である。

次いで、ロックが心的なものを重視し、すべてわれわれに明証的なのは「観念」であり、外界は推論されるのだ、と説く。さらにバークリ、ヒュームに至って、もはや素朴な客観主義は維持できなくなる。

このまずさを現在に照らしながら、フッサールはこう説く。「経験し、認識し、真に具体的に能作している主観性をまったく問題にしないで、「客観性」というようなことを語る素朴さ、また自然や世界一般に関しての科学者の素朴さ」(p.176)また、(そういう素朴さは)「生が視点のうちに入りこんでくるや、むろんもはや存続しえない」(p.176)。ここで「客観主義」が退けられる。

さて、歴史の回顧は次のカントに至って、終了する。カントは「超越論的哲学」を導入した。これによって、客観的なものたちは超越論的な主観なしには、そのままで存在できないことになり、客観主義は乗り越えられる。しかし、このカントでさえ、われわれがそのなかにいる生活環境を前提にしているし、その「文化的事実としての諸科学」(p.187)もまた前提している。この点で、根源までゆくのに不十分である。

そこで、"「この」世界"とフッサールが言うもの、すなわち、われわれの目の前に開けている現在の現実のこの世界全体を「判断中止」するほどのラディカルさが必要になる。これこそが、「超越論的」判断中止である。その結果、見出されるのが(「この」のつかない)「世界」である。

「世界が存在しているということ、しかもつねにあらかじめ存在しているということ」(p.197)をフッサールは肯定する。

(ここに出てくる「つねにあらかじめ」というフレーズは、のちに「つねにすでに」というキーフレーズとして定着し、ハイデガーやデリダに引き継がれてゆく)。

この「世界」とはなにかと言えば、「生活世界」(Lebenswelt、生の世界)である。[ここ、翻訳では「生活世界」になっているが、「生の世界」の方が的確な訳かもしれない]。フッサールは「生活世界は根源的な明証性の領域である」、(そこで知覚や想起されるものは)「直接に現前している「それ自体」」である、(p.229)という言い方をする。

ここにおいて、ついにたしかな根底、明証性の領域にゆきつく(デカルトで言えば、「コギト」「我」のようなもの)。「つねにすでに」存在している「世界」(まだ「この」世界ではない)があり、それは「生の世界」として、われわれに接し、立ち現れてくる、というわけだ。

そこでこそ、超越論的主観がやっと登場し、この超越論的主観が「みずからの志向的形成体として全世界を構成する」(p.327-328)。ちなみに、「志向」とは、つねにすでにある世界に超越論的な主観がかかわる、また、かかわろうとする方向性、と言えばいいだろうか。

最後の重要な論点として、この超越論的な主観は、「わたし」ではなく「われわれ」である。すなわち、一個の自我ではなく、「人間」であり、みんなであり、相互主観性(間主観性)と呼ばれるものだ。これにより、構成される世界がひとつであること、共通の世界をわれわれが生きていること、が保証される。

あとは、「心理学」について全編で触れ、とくに最後の方であれこれと論じているが、さほど理論的な重要性はないと思われる。要は、「事実学」になろうとする当時の心理学を嫌い、「超越論的心理学」として生まれ変わらせて、自らの超越論的哲学と同一視しようとする(p.460)。なぜ、こんなにも「心理学」という名称や分野にこだわったのか、とりわけ理論的な重要性が、僕にはよくわからない。

以上で、本のまとめは終わる。

この本が、ハイデガーや実存主義といった20世紀の半ばに至る思想群の生まれるきっかけとなったこと、他方で、構造主義以降の「現代フランス思想」においては、むしろ、このような「主観≒自我」への理論的な依存からの脱却が図られたこと(フーコー然り、ドゥルーズ然り)もわかる。

なお、デリダは上記の引用にもあった「現前」こそが明証性であるという思考を「差延」の概念によって塗り替えてゆく。こうした、20世紀の後半〜末に活躍した思想家たちが離反したおおもとの思想もこの本によく見られる。

【書誌情報】
『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』、E. フッサール、細谷恒夫・木田元訳、中公文庫、1995