2016年6月29日水曜日

詩と哲学ーージョルジョ・アガンベン


詩と哲学がひとつになること。それを肯定的に説く、現代イタリア思想家のジョルジョ・アガンベンの言葉を拾ってみた。



アガンベンの『イタリア的カテゴリー』監訳者、岡田温司さんは「詩と哲学のあいだで」と題した「訳者あとがきに代えて」でこう解説している。

「[アガンベン]いわく、西洋の言語はますます哲学と詩のあいだで引き裂かれてしまい、一方は悦びなき認識へと、他方は認識なき悦びへと向かってきたのだが、いまや急を要するのは、哲学にそれ本来の悦びを、詩にそれ固有の認識を奪還することである、と。

また、「近著の『装置とは何か』(二◌◌六)にいたっては、哲学が扱うさまざまな概念や用語は実のところは「思考のための詩的な契機」にほかならないものだ、とまで言い切られる。」(同あとがきより)

『イタリア的カテゴリー』のなかで、アガンベン自身はヴィトゲンシュタインを引用している。

(ところで、ウィトゲンシュタインは、かつて「哲学は本来なら詩作のようにしか書かれることはできないであろう」と書いた。)

* この言葉は『反哲学的断章』(ヴィトゲンシュタイン著)に収録されており、その丘沢訳では、「哲学にたいする私の態度は、「そもそも哲学は、詩のように作ることしかできない」という言葉に要約できるだろう。」となっている。(p.78-79)


長くなってきたが、アガンベンの解説書から孫引きでひとつ、印象的な言葉を引用したい。

もしかすると、あるとき、哲学の純粋な散文が詩の言葉のなす詩節を粉砕しようと介入し、詩のなす詩節のほうも哲学の散文を環へと丸めようと介入するのであれば、そのときの言葉こそ真に人間的な言葉なのかもしれない」。(アレックス・マリーの解説書より。アガンベンの言葉)

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詩と哲学はひとつのもの、とぼくは思っている。新刊『遊戯哲学博物誌』まえがきにはこう書いた。

この本は一篇の詩である。物語詩であり、哲学の詩である。というのも、それは「言葉によって十分に表現すること」(世界と倫理について)を目的としているのだから。

【書誌情報】
『イタリア的カテゴリー』、ジョルジョ・アガンベン、岡田温司監訳、みすず書房、2010
『反哲学的断章』、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン、丘沢静也訳、青土社、1999
『ジョルジョ・アガンベン(シリーズ現代思想ガイドブック)』 、アレックス・マリー、高桑和巳訳、青土社、2014