2016年7月17日日曜日

【本の紹介】ジョルジョ・アガンベン『王国と栄光』


『王国と栄光ーーオイコノミアと統治の神学的系譜学のために 』

この本は、政治の枠組みが神学の枠組みに由来することを示唆する。そのために、古代ギリシャ・ローマ時代まで遡って、とりわけ神学の思考の枠組み(パラダイム)がどのように規定されてきたかを探る。考古学の本。


まず、神の存在と実践(意志)のあいだの分裂が指摘される。キリスト教が広まるなかで、教義の解釈論として、「神の存在」(神がどういう存在か、という規定)と「神の実践」(神が実際にこの世界をどのように治めているかーー統治の問題)のあいだに裂け目が生まれる。

これは、キリスト教における「神学」(神の存在論)と「オイコノミア」(神の統治論)の分裂であった。

オイコノミアとは、ギリシャ語に由来する、本来は「家政」の意味だったが、現代英語で言う「エコノミー」であり、この本では、広く「家を治めるように、共同体を統治する活動」の意味に用いられる。

さて、アガンベンは「オイコノミア」には「アルケー」(始まり、原理)がない、と立証してゆく。それは、神の存在論のように「神の本性」(アルケー)の議論ではなく、神の意志、行為、実践を論じる。この「オイコノミア」が政治でいう「統治」の系譜に属する。

こうした「存在」と「実践」のあいだの分割については、アリストテレスの『形而上学』にまで遡ることもできる。そこでは、最高善は分離されてそれ自体で存在(ウーシア。実体)するのか、それとも、ものごとに内在する秩序(最高善とこの世界のものごとの関係、ないし、この世界内のものごと同士の関係)なのか、という問題が曖昧なままであった。『形而上学』の議論は、この「存在」と「秩序」の二つの極を行ったり来たりした。

この曖昧な関係と二極の枠組みは、キリスト教にも引き継がれ、神は「君臨すれども統治せず」(つまり、存在と本性をもつが、世界内の秩序の維持といったことにはかかわらない、と論じるべき)なのか、と問われ続ける。

この問題はまた、「超越的外在性」であり、かつ、「内在的秩序」(摂理)でもある神、という分裂をはらんだ神概念を作ってきた。

ここで「二極をもつシステム」「あいだに一種の不分明地帯を生み出す」という言い方がなされる。これはアガンベンに特有の思考法(方法論)である。

すなわち、弁証法的に二項対立が設けられるのだが、それがひとつへと止揚しないで、どちらかというと脱構築するように、対立と見えて割り切れない論理のなかで結び合っている様子を描き出す。だが、そこで宙づりにして終わらず、二項の「あいだ」に着目し、その「あいだ」の不明瞭な領域でなにが起きているのかに目を凝らす。ーーさらに、この二項と「あいだ」から成る「パラダイム」を図式化し、政治にも神学にも、というように、いろいろな領野に当てはめることで、考古学的な遡行を可能にする。それがこの本の方法論である。

さて、「存在」と「実践」の分裂は、次に摂理の領域へと移り、神は「一般摂理」と「個別摂理」をどう気にかけているのか、という中世の問いへ赴く。

一般摂理とは、世界全体に当てはまる摂理である。しかし、「個別摂理」についてはどう考えたらよいのか。というのも、世界のなかでは個別的には「悪」がなされるし、神が気にかけるとは思えないような些事もたくさん起こっているから。そのひとつひとつを神は意志してそうなるよう取りはからっているのか。いや、個別摂理は「付随的」なのか。しかし、だとしたら、神にも想定できないことが起こりうるのか。etc...

こうした神学的議論がなされ、一応の結論はみるが、ともあれ、大事な点は「一般摂理」と「個別摂理」の問題系が、さきの「存在」と「実践」の分裂と見事に対応していることだ。

次に、天使論が始まる。天使には、「臨席」と「代務」というふたつの性格があり、神に臨席することで神の栄光を高めるとともに、神の代務者として、地上のものごとを統治もしている。そして、この代務において天使論は官僚制に対応する。

官僚制の「位階」(ヒエラルキー)モデルの起源は、位階をもつ天使論である、とアガンベンは言う。そして、ポイントはその先にある。最後の審判のあとも、天使は存在し続ける。そこで天使たちは代務を解かれる(官僚制で言えば、仕事がなくなる)が、神の栄光を称え続け、また九階ある位階はそれ自体、栄光の秩序を示す。こうして、オイコノミア(神による世界統治)の「後」も、天使は栄光のために残る、と、文献調査からはそう言える。

こうして、本のなかで「栄光」という概念が重要性をもち始める。栄光は、「オイコノミア的三位性」(神による人の救済)と内在的三位性(神のありよう)をひとつに結びつける働きをする。オイコノミアは存在を栄化(栄光を与えること)し、存在はオイコノミアを栄化するから。こうして、「オイコノミア」と「(神や王国の)存在」の「あいだ」に栄光があることが明かされてゆく。

ここで、アガンベンは軍隊の話とキリスト教、天使論に触れながら、「喝采」「儀式」「典礼」「記章」といったものが蠢いている不分明な地帯を「栄光」と呼ぶ、と宣言する。ここは、政治と宗教が結びつく地点である。「政治神学」という言葉が出る。

政治において、「神の存在」に対応するのは「王国」である。したがって、さきの議論から、「王国」は「統治」を栄化し、また「統治」は「王国」を栄化する、と言える。

ところが、この全体(「統治機械」)の中心は空虚であり、オイコノミア的三位性と内在的三位性は「神学的 - 栄誦機械」によって常に分節化もされる。「栄光はこの空虚から発せられる光として、空虚を示し、また覆いもする」。すなわち、王国と統治のあいだには常に分裂があり、そのふたつを結びつけるのは、お互いを栄化する「栄光」でしかない。ということは、栄光が喝采や儀式であるかぎり、実質的なものはなく、ふたつの「あいだ」は空虚である。だが、栄光の光がまばゆくされることで、その空虚は覆い隠されもする、ということ。

ここから最後の部分に入る。再び、中世の教父たちが参照され、文献学的にこう結論づけられる。神の統治の前と後、すなわち世界創造前と最後の審判の後にあるのは、「無為」であり「安息日」である。

同じように、王国と統治のあいだにあるのも、無為であり、これを覆い隠すために「栄光」は捧げられ続ける。

この本(『王国と栄光』)は、アガンベンの連続する研究の一環という位置づけなので、結論らしい結論は出ないまま、本書は閉じられる。

なお、最後に、現代のコミュニケーションと政治の問題点に触れられているが、それまでの精緻な分析のあとでは、とってつけた感じが拭えない。現代の政治に応用するのは、これからのアガンベン、ないし、読者次第ということになるのだろう。

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僕の感想だが、訳がとてもよい(訳語についての短い解説付き)のと、アガンベンの姿勢が新しいのとで、大変な良書と思う。アガンベンは、思想史から現代フランス思想までを吸収したうえで、それを自分の方法論へとうまく活かしている。また、全体に文献参照と論証が丁寧である点も好感がもてる。オリジナリティ全開の個人主義である現代フランス思想とは一線を画している。長大な論文の趣もあるが、お堅い論文ではなく、哲学するダイナミズム、静かな情熱を感じさせる。

【書誌情報】
『王国と栄光ーーオイコノミアと統治の神学的系譜学のために』、ジョルジョ・アガンベン、高桑和巳訳、青土社、2010