2017年2月20日月曜日

物語がそこにある安心感


 個人的な話だが、物語がそこにある、ということに安心感を覚え、また生の充実を感じる。それは悲劇であれ、喜劇であれ、リアリズムであれ、ファンタジーであれ、ギリシアやインドの神話であってもそうだ。

なぜ、物語があることに心満たされるのかはわからない。音楽を聞くと気持ちが落ち着く作用に似ている。

物語のなかには「入り込める」ものもある。僕にとってはミヒャエル・エンデの児童文学がそうだ。主人公たちと一喜一憂してしまう。だけれども、そんな風に心を奪う物語ばかりが「よい物語」というわけでもない。

バルザックの描く不幸な結婚譚は、リアリズムの悲劇であり、時代も場所も社会的な感性も異なるが、寄り添うように読むことができて、十分な満足を与えてくれる。

他方で、ああしたこうしたああだったこうだった、どんでん返し、といったオチの効果を狙った小説にはあまり惹かれない。作為的に思えるからだろうか。

僕がそばにあってほしいと思う物語は、必然性をもったものだ。その目には見えない、解釈によって少し迫ることしかできない「物語を貫くもの」(=必然性)に強さを感じていたい。また、ストーリーの「流れ」というのはとても大事で、滔々たる川のような流れ、ときには音楽性さえ伴うそれ、が落ち着いた心持ちを作り上げる。

そういう物語は、「入り込め」なくても、「そこにある」だけで安堵させてくれる。ちなみに、必然性と滔々たる流れを併せ持つ点では、漢詩も同じだ。

良質な物語を書いたり、読んだりできる時間は幸せだ。(書くのはとても楽しい、良質かどうかはともかく)。