2017.5.4.
木曜日更新のエッセイ。
今回は、「小説を書こうとしてしまう」*『じゃじゃ馬ならし』名訳*メルヴィル『ビリーバッド』。
小説家の保坂和志は、批評的なエッセイ『試行錯誤に漂う』で、作家を志すひとが「小説を書こうとしてしまう」不幸について語っている。それは、ジャンルとしての小説ではなく、世の中で「こういうものが小説だ」とみなされている小説のこと。保坂自身は、宮沢賢治やカフカの生前は未刊であった原稿を読むことに面白みを感じるという。なぜなら、出版され、広く目につくことを念頭に置いていない言葉がもつ魅力に引かれるからだそう。
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シェイクスピア『じゃじゃ馬ならし』を小田島雄志の訳で読み直した。ストーリーはおぼろげに覚えていたが、言葉遊びがこんなにあふれているとは知らなかった。訳注はついておらず、おそらく原文に相当な数、散りばめられている言葉遊びをみごと自然な日本語に訳している。1983年初版となっているが、古めかしくなく、品がある。シェイクスピアの訳は、数の少ない河合祥一郎を除けば、小田島さんの訳が一番よさそう。
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『白鯨』で有名なメルヴィルの遺作、『ビリー・バッド』を読んだ。若い黒人のハンサムな水兵が、不条理な偶然に巻き込まれてゆく長編。「解説」では、内容の解釈がなされるが、なんと言っても面白いのは「語りの重層性」だ。物語の流れをたびたび遮っては、作者が顔を出し、逸脱や読者への呼びかけを差し挟む。この読みにくさがユニーク。さすが、"Call me Ishmael"(イシュマエルと呼んでくれ)で『白鯨』を語り始めたメルヴィルだ。
『じゃじゃ馬ならし』、シェイクスピア、小田島雄志訳、白水uブックス、1983
『ビリーバッド』、メルヴィル、 飯野友幸訳、光文社、2012