2017年5月24日水曜日

シモーヌ・ヴェイユ『重力と恩寵』ーー純粋さを求めて


シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)はフランスの思想家。数冊の「カイエ」(ノート)を友人に託し、ロンドンで客死。死後、ノートは編纂され、『重力と恩寵』として出版される。


「重力」は人間を低いところ、堕落へと引きずり下ろす力である。それに対して、人間は善をなそうとするが、それは意志の力によってはできない。ただ、「恩寵」として与えられるかたちでのみ、人は善をなし、重力に拮抗できる。

「たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。」(p.9)

本書のタイトルはこういった断章から取られている。ヴェイユは「重力」を執拗に強く感じていたようで、この本の思想、断想たちは悲惨さの色合いを帯びている。

「不幸があまりに大きすぎると、人間は同情すらしてもらえない。嫌悪され、おそろしがられ、軽蔑される。」(p.14)

「善への愛にうながされるまま、苦しみの待ち受ける道にふみ入り、一定の期間がすぎたあと、自分の力の限度に達し、身をもちくずす人々の悲劇。」(p.20)

これがヴェイユにも当てはまるのかはともかく、彼女はロンドンで戦争下のフランスの人々、悲惨な人々のことを思い、同じ境遇に身を置こうとしたらしく、食物を断ってゆき、肺結核を患いながら飢餓に近い状態で死んだという。

そして、ヴェイユはなにより純粋さを求めている。

「こんなふうに、ほとんど自分ではその気もなしに、なかば恥ずかしく、うしろめたく思いながら果たされた善こそが、純粋なのである。絶対的な意味で純粋な善は、まったく意志の手をはずれたところにある。善は超越的である。神こそが<善>である。」(p.80-81)

ヴェイユはユダヤ系であったが、キリスト教に強い共鳴を覚えていた。そのことは、断想の端々に苛烈なほどの信仰(ないし、信仰を伴う思想)が見出されることからもわかる。こんな比喩もある。

「存在の奥深くにまで味わいつくされた矛盾は人を引き裂く。それが十字架である。」(p.166)

訳者あとがきを読むと、「カイエ」を編纂してこの本を編んだティボン氏は、カトリック教徒としてやや編集にバイアスをかけたようである。「カイエ」そのものも刊行されているため、比較研究ができる。岩波文庫で『重力と恩寵』が2017年3月に出たが、こちらはカイエを参照しながらの新校訂版とのこと。

ちなみに、岩波の訳者は冨原真弓さんで、ムーミン関連の本を多く出している方である。

『重力と恩寵』、シモーヌ・ヴェイユ、田辺保訳、ちくま学芸文庫、1995