2018年4月8日日曜日

『遊戯哲学博物誌』の案内板 その1

『遊戯哲学博物誌』を刊行してから半年ほど経つあいだに、いろいろな声をいただき、いろいろな読まれ方をされている!と少し驚いています。


なにかに突き動かされるように書き切った本でしたが、いま、反響を踏まえながら、わかりやすい紹介を兼ねて、ポイントをまとめてみます。


一段落ついた著者からの「案内板」のつもりで……


この本の副題は「なにもかも遊び戯れている」。この本の世界観を表しています。それは、おはじきが広がった床のように、ばらけた積み木のように、いわば子供の戯れとして、この世界を眺める仕方です。

または、ガスや塵が渦巻いて星が生まれたり消滅したりする宇宙の光景。


さて、そのように「世界を眺める」ことにはどういう意味があるのでしょう?

〜〜〜〜〜

楽観的なひとと、悲観的なひとは、見える世界がちがうでしょう。どちらかと言うと、楽観的になれたら、そのほうが幸せそうです。

そんな基調となる気分のちがいが、思想のあいだにもあります。

たとえば、ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』において仏教の影響を受け、「諦念」に至る世界観・人生観を語ります。また、ハイデガーは「死」を起点に生を捉え返す実存の哲学を開きました。キーワードとして「不安」という気分にも触れています。

そのためか、これらの哲学はどこか暗い影をもっているようにも見えます。

他方、最も明るい哲学と思われるスピノザの『エチカ』では肯定的な神が登場し、それが世界そのものでもあり、「わたし」もその一部となり、喜びに至る論理が展開されます。

どこか楽しそうに見えるスピノザ

では、『遊戯哲学博物誌』はどうなのか。

まずは「明るい哲学」として、「遊び」さながら、軽快で喜びのある世界を描きます。それでいて、それが中性的、中立的な色合いを帯びていれば、一番よいと考えます。

たしかに、この本も元気の出る思想、「生の哲学」の一面をもちますが、スピノザのように神秘主義的になるまで完全性や喜びを突き詰めず、またドゥルーズ/ガタリのように、生のエネルギーを炸裂させる「生の哲学」へとひた走る必要は感じませんでした。

というのも、「遊び」は善いものでも悪いものでもなく、遊びそれ自身であるからでしょうか。世界を遊びとして眺めることは、ありのままの世界を最もシンプルに眺める中性的な眼差しをもつことかもしれません。

次回は、そんな「遊び」に込められた意味をお話ししたいと思います。(その2へつづく)