2018年4月9日月曜日

『遊戯哲学博物誌』の案内板 その4

その3からのつづきです。

古代ギリシアの原点に立ち戻る

今回は、最初の1〜3章と、最後の2章の話をしたいと思います。前回、書いた通り、ここにはこの本のエッセンスが抽出、凝縮されています。

1章では、「遊戯」を軸にした「哲学」の本であること。「博物誌」として具体的なエピソードをたくさん載せ、そこから抽象的な思考を展開していくこと、を述べています。

2章では、「なにもかも遊び戯れている」という世界観が宣言され、そこからは「遊戯」と言っても幅が広い、これも遊戯、あれも遊戯、……そうしてすべてが遊戯に数えられる、という話をします。

3章では、"Lebenspiel"(レーベン・シュピール/ドイツ語の造語)という言葉が登場し、生きとし生ける者は、Lebenspiel=「生の遊戯」(英語なら、Life-Play)を遊ぶのだ、と言われます。


例として、叙事詩の『イーリアス』が出てきて、命を賭けた戦いに挑むアキルレウスは生の遊戯をしているとか、あるいは動物の博物誌が出てきて、生命をつなぐ営みは、これも生の遊戯に数えられると言われます。

ここまでで、「世界のすべての営みを遊戯、とりわけ生の遊戯と捉える」という見方が提示されています。

* なお、造語の"Lebenspiel"は、つなぎの"s"を入れて、"Lebensspiel"(レーベンス・シュピール)とするのが正しい、というご指摘をドイツ語の専門家からいただきました。

最後の2章は、「パラドックスについて」と「不思議について」です。よく知られたパラドックス(「アキレスと亀」や飛ぶ矢のパラドックス)は、理屈によって「解く」こともできるけれど、初心に返るように、始めの驚きを大切にしてもよいのではないか。


そういう「びっくり」のつまずきの小石を見つけること、それは「不思議」に出会い、その扉を開こうとする、哲学のもっとも根っこにある感性につながっているのではないか、という話です。

こうして、「遊戯」という視点のもとに全世界を眺めたうえで、最後は、哲学の始まりにある「不思議」の感覚を保ち続ける、という姿勢で、本書は閉じられます。


これら最初と最後の間には、概念の発明やものの見方の捉え返しがおこなわれ、いわば哲学書らしい部分に当たるのですが、これについてはのちほど、触れる機会があれば触れたいと思います。

その5では閑話休題、書き手としての感想を書いてみようかと思っています。