なぜ「遊び」なのか。
ぼくはこの本を出版する10年以上前から、一冊の哲学書にすべてをまとめるならば、そのキーワードは「遊戯」だと思ってきました。
そういう風に「遊び」に惹かれた理由はこういうことだと思います。
「遊び」は自由自在で融通無碍。遊び戯れることには、定められた枠もなく、「こうしなければならない」道もありません。ルールはあってもそれを選ぶことができるし、そもそもルールのない、子供のたわいもない動作のような遊びだってあります。
そして、なにより「遊び」は軽快で、喜ばしいものです。また、なかにはスポーツや人生を賭けた仕事のように、真剣な遊びと呼べるものもあります。
こんな思考をもっと進めれば、目的のなさ、世界の中心のなさ、原理・原則からの自由を挙げられます。世界にはたどり着くべき「目的」としてのあり方もなければ、人生にもあらかじめ定められた目的がない。また、そこからすべてが始まっているような原理、原則、法則、従うべき規範といったものもありません。それらもまた、遊びのルールのように、ある遊びのなかでだけ有効なのです。そこには、外部から与えられる絶対的な意味が、なにもないのです。
そういった肯定的で、自由自在な、遊びの宇宙を描き出したかった。
念のために付け加えておくと、「目的も、原理もない」「なにも絶対はない」といった考え方は、ニーチェとともに有名な「ニヒリズム」(虚無主義)では微塵もありません。ニヒリズムとは近代の病であり、「神が死んだ」と言われたように、絶対的なものがなくなり、いわば精神のうえで露頭に迷ったひとびとを指した言葉です。思想的な空虚であり、信仰も心の支えも失われた、頼りない宇宙です。
しかし、「遊び」は遊びそのものとして自律しており、それ自身に満足を見出しています。ですから、ただ、堅苦しいもの、がんじがらめの規則から「逃げ回って」いるむなしい自由ではありません。解き放たれたなかで、新たに結びつきを作り、友情を紡ぎ、自分に満足し、周りに喜びの糸を張り巡らせる活動なのです。遊びは、その内部では意味にあふれています。
さあ、では「遊び」のハートをもって具体的に哲学を始めると、たとえば「世界」や「倫理」について語ろうとすると、どういうことになるのでしょう?
次回は、『遊戯哲学博物誌』の構成に入っていきたいと思います。
その3につづく。