2018年5月27日日曜日

哲学カフェ、その先へ


最近、哲学カフェは人気がある。首都圏に数多くあるようだし、僕自身も参加してみて、思うところができた。ここでは、哲学カフェに感じがちな限界を見つめて、「その先へ」進むことのメリットとデメリットを考えてみたい。(しかし、僕はちょっと現場経験が足りないかもしれない)。



哲学カフェは、もともとは「市民」が話し合うための場である(*フランスの「ソクラテスのカフェ」)。したがって、ここでは専門色の出る「勉強会」的な哲学カフェは除いて考えよう。

そんな哲学カフェが、「学問としての哲学」よりも面白い点は、ふたつある。

1.いまここ(現代のこの国、この地域)のわたしたちが当事者として語り合えること。「専門家」である必要はない。
2.個人的なエピソードを聞けたり、独特な信念を聞けたり、パーソナルな部分に触れられること。それは同時に交流の楽しみでもある。

大きくは、このふたつが魅力だと思う。


他方で、哲学カフェの陥りがちな罠もある。それは、お題(哲学カフェでは「テーマ」が示される)に対して、各自が「持論」を展開するのみで、共通の土台をもたずに、すれちがい続ける可能性があること。それは不毛さにつながる。


これを回避するために、誰かが「論点の整理」を始めようとすることもある。だが、そもそも共通の土台がないため、同じキーワードでも、付与された意味がちがう、といったことが多々あり、「論点の整理」は困難を極める。それに立ち止まるよりも、先へ話を進めるほうが楽しい。こうして、タイムアップしたときには収束せずに終わる、ということが起こりがちではないか、と感じる。

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以上のことは、メリットとデメリットとして表裏一体なのだ、と割り切ることもできる。実際、それでも十分に楽しめる。

けれども、仮にその先へ、すれちがいの「罠」を越える工夫をしたい!としたら、なにができるか。三つ提示してみよう。

1.問題を絞り込んで話す
 たとえば、テーマが「愛について」だとしよう。そのとき、「被介護者を抱える家族のなかの愛について、これから話します」と問題をぎゅっと絞り込めば、共通の土台を据えることにつながる。ほかのひとも、それについて意見や体験を語れる。


他方で、これをやると、せっかく漠然と抽象的な問題に向き合っていたのに、話題が卑近になり、哲学する醍醐味が損なわれる可能性もある。

2.よく知られた本を引き合いに出す
 たとえば、愛について、「エーリヒ・フロムの『愛の技法』ではこう語られていました」「キリスト教の愛ですが、マザー・テレサはこう言いました」などと知識を示せば、それらをよく知らないひとも、「こういうところはどう考えるの?」と質問し、みんなが事実に基づいて話を進められる。


この方法のデメリットは、知識の量によって参加者のあいだで分断が起きたり、意見を言うハードルが上がったりしうること。専門色が出てしまうわけだ。

3.各回を越えて体系化する
 哲学カフェは、ふつう一回にひとつのテーマを話し、次の回とは独立して終わる。けれども、固定メンバーが多い場合など、前回までの話し合いを土台にして、次の回を築くこともできるのでは、と考える。

たとえば、「思いやりとはなにか」を前回、話し合ったとする。そこで、「思いやりとは、『個人主義』を乗り越えて、ひととひとの間にある隔たりを少なくする気遣いだ」というような結論が出たとしよう。

さて、今回のテーマは「現代の生きづらさとはなにか」なのだが、ここで「いまは、ますます個人主義が幅をきかせており、個々人が自由に生きられる反面、思いやりのような気遣いがどんどんなくなっているからではないか」と意見する。

こうすると、「個人主義」や「思いやり」というキーワードは、前回の成果を共通の土台として使えるので、すれちがいが起こりにくくなる。さらに、こうした蓄積でだんだん「この会の思考の体系」ができあがってくるだろうから、そこから逸脱しないように話せる。

デメリットは、そこまで統制をとるのは難しいうえ、出入りの多い(新参加者の多い)会では、現実的でないこと。

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いま、試みに三つの案を挙げてみたが、これらはいずれも共通の土台を設定することで、各「持論」のすれちがいを避けることを目指している。また、それを「整理」できないもどかしさを解消することも目指している。現場の感覚として、話が噛み合わないのははがゆいものだ。


だが、それだけではなく、上の提案は、実は「哲学カフェ」=「市民」「学問としての哲学」=「アカデミズム」の間に橋を架ける試みでもある。僕には、いまのままでは、「哲学カフェ」=「市民」と「学問としての哲学」=「アカデミズム」の間には、大きな溝があり、せっかく「哲学」仲間になれそうなのに、両者が平行にそれぞれの活動を続けているように見える。

しかし、結局のところ、1〜3の案を地道に実行するよりも、市民の自由闊達な話し合いを大切にする方が、たとえすれちがおうと、結論が出なかろうと、活気があって楽しく、継続もしやすいのかもしれない。