2018年7月20日金曜日

芥川賞『送り火』高橋弘希と「オリエンタリズム」

先日、芥川賞を受賞した高橋弘希さんの『送り火』の感想です。


〜以下、ネタバレを含みます〜



<あらすじ>
主人公は、父の転勤で東京から青森へ引っ越してきた中学生である。彼は中学に無難に溶け込もうとしながら、いじめには見てみぬふりをして、グループとつきあう。小説には、土地の風物や方言が散りばめられ、なだらかに生活は続く。クライマックスに来て、途端に悲劇となり、「娯楽」としての残酷な見世物が始まる。いじめられっ子は無残な仕打ちを受けるが、途中でキレて逆襲し、凶器を振り回す。そして、誰よりもおまえが憎かった、と言い、主人公を切り裂く。主人公は森を逃げ、意識を失い、血みどろで河原で目を覚まし、そこで物語は終わる。

<どう読むか>
舞台はおそらく90年代。顔見知りの上下関係が固定した地方で、暴力が勃発して荒れ狂う物語、とも読める。そう読めば、主人公は巻き込まれただけで、テーマは遠い片田舎の危険な習俗にすぎない。

しかし、この物語は東京(=首都圏)と地方の恐ろしい切り結びとしても読める。

主人公の父は、おそらく大きな企業に勤めており、今度の転勤を最後に、1年後には東京本社で出世コースを歩むことが決まっている。主人公にも、青森へのこだわりはない。その目線は、終始、外から観察する傍観者のもので、だから、いじめの痛みも面倒も、やり過ごす対象でしかない。そして、読み手が主人公の目線に同調するように、語りは最初から仕組まれている。だからこそ、クライマックスの崩落が劇的であり、劇薬にもなる。

<東京と地方の「オリエンタリズム」>
ここに読み込めるのは、「オリエンタリズム」(西洋中心主義のもと、東洋をエキゾチズムの対象として見下しながら、興味本位で楽しむ姿勢)によく似た、東京中心主義と地方への優越的な視線の告発ではないか、と感じた。

主人公の一家は、東京の中流階級であり、彼らは青森にいてもなお東京人である。土地の風物や方言にも、主人公は深い関心を示さない。青森は、お父さんが(そして、一家が)ステップアップするための踏み台にすぎない。

そうやって地方に根ざすことなく、地方を利用し、習俗さえ消費するだけの東京人が、最後に手痛いしっぺ返しを食らう物語。それを過剰なほどの残虐性で、あからさまに強調したのが、この『送り火』であるように思える。

<メッセージ性?>
ただ、つけくわえておけば、東京を敵視する思想的なメッセージのための小説というわけではない。クライマックスで崩落するのは主人公の優位性だけではなく、地元の人間関係もまた歯車が狂う。土地が、東京人を排除して、閉ざされたまま安定を保つわけではない。なにも無傷ではいられない。

あえて言うならば、むしろ、東京人がやってきたことで、その「東京」の傲慢のために、結局は、両者ともに壊滅していくのだ──と読みたい。

そこまで考えると、今度はかえって、なだらかな中盤までに散りばめられた青森の風物詩が妙に印象に残る。青森出身の著者が緻密に描写する土地の風景──。