2018年8月10日金曜日

トマス・アクィナスと、デカルト、スピノザの意外と近い距離


最近、デカルト『省察』(ちくま学芸文庫)、岩波新書『トマス・アクィナス』を読んで考えたこと。学んだこと。


近代哲学の祖デカルト。その思想は(神を中心とした)中世哲学との決別だったのか──むしろ、そこにゆるやかな連続性が見える。

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『省察』のおおよそ7割は神の話である。以下、『省察』の流れをおおまかに示すと、懐疑→私の存在の証明→神の存在証明となる。

1.私は感覚を疑うことができる。さらに数学的な知でさえ、欺く神を想定すれば、疑える。(いわゆる「方法的懐疑」)

2.だが、私がなにを疑おうとも、疑っている私の存在は疑えない。したがって、考える精神としての私は存在する。(「我思う、ゆえに我あり」)

3.次に、私のなかには、五感が感受したものや数学的な知など、いろいろな観念があるが、神の観念も存在する。

4.この神の観念は「完全性」を含むが、もとより私は完全な存在ではない。他方、すべての観念には原因があり、もとをたどれる。そこで、私のもつ「完全性を含む神の観念」をさかのぼると、神そのものにたどりつかざるをえない。ゆえに神は存在する。(神の存在証明)

……実は、『省察』は内的な自分への語りをつらつらと書き溜めるような文章であり、さほど構成に気を遣っていない。とても散文的。

そこが面白みでもあり、馴染みやすさでもある。

したがって、上のように図式的に整理できるのはごく一部である。ほかにも「蜜蝋」の喩えなど、とてもユニークだし、心身問題の論点もあれば、神の存在証明も実は3通りくらいの仕方でなされている。

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次に、岩波新書『トマス・アクィナス』(山本芳久)と関連づけたい。ヨーロッパ中世哲学の代表者、トマス・アクィナスを主題とする良書だが、このなかに「神の完全性」の話が出てくる。

それによると、「神の完全性」がまずあり、それが拡散し、人間にも「分有」されることで、人間も小さなものながら「完全性」をもつようになる、という。

これは先のデカルトによる「神の存在証明」と枠組みは同じである。デカルトはスコラ学(中世哲学)の枠組みを受け継ぎながら、「省察」したのだとよくわかる。

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最後に、スピノザとのつながりについて。新書『トマス・アクィナス』の主題は、神の「善」が拡散するものであり、「善」は世界のいたるところにあまねく行き渡り、人間を含む被造物にも分かち与えられ、そこに愛の交流も生じる、といった世界観である。

言ってみれば、神を中心としてこの世界は動的に「善」に満ち溢れ続けるのである。これはスピノザが『エチカ』で示した世界観によく似ている。

なお、新書には「神を観ることが至福である」との一節もあり、原典への参照の点ではっきりしなかったものの、まさに『エチカ』の結論部に当たるような幸福観を打ち出していた。

中世哲学〜デカルト〜スピノザ。この系譜にはまだまだ面白い発見がありそうだ、と感じた。