2020年3月11日水曜日

【本の物語】『残心抄 祖父 三浦義一とその歌』三浦柳



歌人の三浦柳(りゅう)さんが、祖父の三浦義一について調べ、エッセイ風の評伝を書き上げた。

三浦義一は、戦中は右翼活動家であり、尊王の道を説いて政府や軍部を批判し、戦後は政財界の黒幕として恐れられ、「怪物」とさえ呼ばれる人物である。だが、根底において歌人であり、その歌にはひたむきに遠い理想へ向かい、情熱を燃やし続ける崇高な人物が映る。その歌を人生と照応すれば、とてつもない生き様が見える。

それを明らめる渾身の作である。


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三浦義一は、東京に生まれたが、体が弱かったためもあり、幼くして福岡県若松に移される。中学時代は無頼で、柔道を身につけ、喧嘩をくり返した。暴力のために停学などの処分を七回も受けた。この頃から感情の抑えが利かなかった。

しかし、義一には繊細な一面がずっとあったようである。十八歳の時、肋膜炎で入院した。さらに結核にかかり一年以上の入院を経験する。この頃から歌に深い心を託す。

病間
ゆくりなく 菜畑のくろに あかがねの
銭を拾ひぬ 冷めたし銭は

健康な青年であれば、このような繊細な感性はもたないであろうと著者は語る。

この後、義一は上京し、北原白秋のもとに住み、歌を教わるが決裂して大分へ戻る。義一の父は政治家であり、各方面に顔が利いた。放蕩する義一をけっして認めず、口利きをして会社勤めをさせる。のちに義一は歌集『当観無常』において、二十代を振り返ってこう書く。

「流離十年。われ、如何に生くべきかを知らず。何を為すべきかを知らず。酒に狂い、女を恋ふ。名に憧がれ、銭を愛せんと志しぬ。而も(しかも)、わが心満たざりし。」

義一はキミという個性的な女性と事実上の結婚をし、同人文芸誌『不知火』を相関する。しかし、義一は腸結核に侵され、キミは若くして死ぬ。義一は愛ある出会いと別れの悲しみをともに知る。

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『残心抄』は義一の波乱万丈の生を仔細に記していく。義一は父の死に立ち会い、勤めた会社のために奔走し、恩人に恩を返す。再び妻を得て、子のなつめが生まれる。(なつめは著者、三浦柳の母である)。右翼団体に属して活動し、たびたび投獄される。

そのなかで脊椎カリエスを患い、また糖尿病が悪化したため、獄を離れ、伊豆の伊東で療養生活を送る。このとき、第一歌集『当観無常』が編まれた。子のなつめを思う歌を詠む。

茎ほそき 雛芥子に似る 汝(なれ)ゆゑに
生きむとおもふ 病みてをれども

「義一は生死を差し置いて生きてきたであろうが」「愛娘なつめの存在があってこそ」生きようと思ったのだと著者は言う。

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日本は戦争に突入していく。義一は心機一転、激しい右翼活動を控え、歌集を縁に結びついた盟友とともに月刊雑誌『ひむがし』を創刊する。これは短歌による文化運動である。自ら歌を詠み、また会員の歌を評することで「すめらぎの道」(天皇の道)を確かなものにするための革命運動であった。義一は書く。

「歌は生命である。生命の息吹、それが調である。(中略)だから、歌は一木一草や山水風光を如実に歌ふこと丈でなく(中略)その物、その事の内なる生命と一体となって燃焼する それが歌である……」

『ひむがし』を運営する仲間たちは、本物の尊皇を目指し、ために当時の政府と軍部をたびたび苛烈に批判した。それで巣鴨拘置所へ収容されることもあった。その仲間へ向けた歌。

かくのごと 国をなげきて 民草は
獄にぞすわる 霜こほる夜に

また同じ頃に。

水さび田を ゆふあさりゐる 白鷺に
涙こぼれきと 夜(よは)に言ふ妻

義一は病で不自由な身体を運び、伊東から東京へ出た。仲間のために総理大臣の東條英機に直訴し、嘆願した。義一の精神力と、政界に通じる力はどちらも尋常でなかった。義一と東條英機は、社会的な立場こそたがえど尊皇の心は通じ合った。ふたりは永い友情を結んだ。

戦中の義一は酒も断ち、遊びもやめて、ひたすらに『ひむがし』の歌作と評に取り組んだ。彼の精神は純粋性を増して極限まで強められていく。身体はぼろぼろであったが、大空襲を受ける直前の東京へ無理にでも出るほどの気力で支えられていた。好運あって彼は生き延びた。

そして、終戦を迎える。

八月十五日
目のまへに 万朶の桜 ちりにける
きのふをおもふ 誰(たれ)かわすれむ

義一はまた、人間としての強靭さと魅力をもって、GHQ参謀第二部のウイロビー少将と認め合う。反共のために協力し合い、GHQ民政局と対決する。義一は『ひむがし』に書いている。

「……人を憎むならば、究極において人は孤立する以外ない。共に生くるのが日本の道と思ふ。しかし共に生くると言ふことは断じて妥協することではない。」

しかし七年後、サンフランシスコ講和条約が締結される頃、義一が思い描いた日本の姿はそこになかった。無念を覚える。

すべなかる いかりとおもへ 錆石(さびいし)の
おもきまはして 茶を挽きにけり

古風と大和の情緒、そして厳しい心を併せて表現する歌である。

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戦後の義一は再び酒と銀座通いを始める。他方で、将来の日本のため、さらにあるべき天皇中心の国のあり方のためにさまざまな活躍をした。その結果、「室町将軍」などの異名をとり、政財界の黒幕であると噂された。

伝説とされていく様子はともかく、最期まで義一には「二面性」があった、と著者は語る。一面には気性が激しく、時代ごとに活動を変えていく義一の定まらぬ姿がある。もう一面には、歌人として、またひとつの道を奉じる者として、一貫した心をもって繊細になおかつ太く揺れることなく歌を詠み続ける義一がいる。その歌は彼の魂を表現し、いまも歌集やこの本のなかに三浦義一を活かしめている。

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三浦柳さんはこの本を書き上げるのに十五年を要した。それは苦しみを伴う長い「喪」でもあったと言う。いまこうして綿密な調査と深い文学性をもって一冊が成ったことで、三浦義一の荒ぶる御霊と、その純一無雑な詩魂は供養されたのではないかと感じる。